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映画メインで諸々の感想を

これを観れば他の日本映画がいかにクソかよくわかる 『カメラを止めるな』 90点

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2018年度最大の話題作ではないか。
現在はシネコンにも進出して、興行的に大成功。評論家・批評家の評判も高い。
半信半疑で観に行ったが、世間の評価に納得できた。
映画館が笑いの渦に包まれるという経験は、記憶している限りでは、人生二度目で、やはり笑い声がきこえてくる映画というのは良いものだ。万人がちゃんと笑えるというのは、ほんとうに難しい。吉本新喜劇に伝統的にみられる「チビ」「デブ」を笑う文化を否定するつもりはないけれど、本作のような「健康的」笑いは稀なだけに、新鮮だった。
監督やキャストの人たち、誰一人として知らない。観客の多くからすれば「無名」の人たちだ。それでも、これだけ面白い映画が作れるのだと証明したわけで、傍観者たる観客としてもうれしい。

 

そもそも、なぜこんなに日本映画がクソなのか。
それは「●●制作委員会」方式の映画作りにある。映画会社独自の企画が少なく、それで当たるのは東宝の若い人(君の名はとかのプロデューサーの人)くらいで、他のプロデューサーたちは何かの間違いで映画業界に入ったようなクズばかり。
ある程度プロモーションもできるし、観客を見込めるということで、映画会社はTV局や出版社からの企画に乗っかるかたちで、原作付きの安い恋愛・青春・コメディ映画を量産することになる。結果、バカが作ってバカが観に行くという負のスパイラルから抜け出せない。才能と野心のある人は海外に出て行くべきで、もう日本の映画会社は配給だけやっとけばいいと思います。

さて、この作品は、映画を撮ること自体が映画になっている。
小説でも、語り手が小説を書く小説は面白い。このあいだ読んだドナルド・E・ウェストレイクの『さらば、シェヘラザード』がまさにそういう小説だった。こういう仕掛けが好きな人は多いと思うが、個人な嗜好をこえて、「書くって何なんだろう」と考える契機が詰まっているのも良い。


『カメラを止めるな』も同じ。
大前提として、映画を撮るという行為、それに関わる人々への愛情があり、その上にドラマが展開している。ある意味では、『男はつらいよ』的な安心感があるのだ。

みんな褒めまくっているし、実際素晴らしい映画だったが、伏線部分が長くて退屈だったのは否めない。もちろん、そこでの違和感が次々と回収されていく後半の快感のためには、必要な長さだったのかもしれないけれど。

こういう映画をもっとみたい 『レディ・バード』 91点

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ごくたまに、「タイムマシンがあれば、自分の父親や母親が若い頃に戻って、両親がそれぞれ初めて車に乗ったり、お酒を飲んだりしている、その瞬間を見てみたい」と思うのだが、映画の最後の場面で、いつもより強くそう思った。
初めて免許を取った主人公と、現在の母親が重なる場面だ。
青春物語としてレベルが高いと思って見ていただけに、親の気持ちも上手に掘り下げるラスト10分くらいが意外な喜びだった。

カリフォルニア州サクラメントにあるカトリック系の高校に通う17歳の主人公が「レディ・バード」。
クリスティーンという本名だが、「レディ・バード」を自称して、周囲にもそう呼ぶようにアピールする。
そんな彼女の、いわゆる「イタい」思春期を丁寧に追うところに、この映画の特徴がある。
最後、NYからの電話で、彼女はもう「レディ・バード」を自称しない、そこに彼女の成長がわかりやすく刻印されていた。
細々とした日常生活の描写が素晴らしく、同じく田舎生まれの自分にも思い当たるところがあった。
そうした「イタさ」はいろんな人が指摘してるだろうから、ここでは別の視点からこの映画を称えておきたい。


それは、「レディ・バード」の家族だ。

レディ・バード」の家には、両親と兄とその恋人、そして彼女の五人が住んでいる。
兄はアジア系で、両親とは顔立ちがまるで違うから、おそらくは養子なのだろうと思う(そのあたりをいちいち説明しないのがよい)。
映画の最後、母親が破り捨てた書きかけの手紙を、NYのレディ・バードが読む場面がある。
手紙には「もう妊娠を諦めていたときにあなたを身ごもって・・・」という一節があった。
なるほど、そういう経緯があり、両親は養子をとったのかな、と推測した。
その兄だけでなく、兄の彼女(彼女の背景も、多くは語られないが、親に捨てられたとつぶやいていた)をも、家に住ませてあげている。
思春期の「イタさ」を緻密に描くためには、それを受け止める家族をしっかりと描く必要があるのだな、と感心した。

 

ちなみに、最初の方で、車の中で『怒りの葡萄』の朗読テープを聴いている場面があった。母親が感動していたのはわかるが、助手席の娘も泣いていた。あれは朗読内容に感動して泣いていたのだろうか。それなら、よい親子だし、通じ合う感性を持っているということが、見事に表現できていると思う。

問題提起とサスペンスのバランスが絶妙。『ウインド・リバー』 87点

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監督・脚本はテイラー・シェリダン。今後はこの人にも注目していくことになるだろう。
脚本家としてはすでに高名なようで、この人が脚本を手掛けた作品も時間を作って追いかけたい。ネットフィリックスに上がっている模様。

映画の舞台は、ワイオミング州ネイティブ・アメリカン保留地。
そこで暮らす主人公は、ネイティブの女性と結婚し、二人の子どもを持つが、長女が謎の死を遂げている。心の傷から、現在は別居中(離婚かもしれない)
ある日、牛を襲うピューマ(?)退治の仕事の最中に、主人公は女性の死体を見つける。
死体にはレイプされた跡があるが、死因は窒息死。マイナス30度の冷気によって肺が破裂して血が出たために窒息死したのだ。レイプされて逃げる最中に死んだものと推測される。
主人公にとっての衝撃は、その女性死体が親友の娘だったことだ。主人公の死んだ娘と、幼少期から仲良くしてくれた女の子が、無残に死んでいる・・・
ここに女性のFBI捜査官が登場し、映画はバディものの体裁をとりながら、事件の究明に向かっていく。

この映画のバランスの良さは、ネイティブ・アメリカンたちの現状をうまく取り込んでいる点にある。
周囲に目立った仕事はなく、教育を受ける場所も限られている。大学はない。
こうした町で、非行に走るくらいしかやることがない「クズ」たちの姿が、上手に取られている。
死んだ女の子の兄貴が、どうしようもない。
その兄に対して「働くこともできた、大学に行くこともできた。選んだのはお前だ」と突き放す主人公。
その兄は「お前になんか俺の気持ちがわかるか!」と言い放つが、それに対する主人公の言葉がよかった。
大意だが、「まったく平等ではないこの世界を恨む気持ちは分かる。しかし、世界と戦っても勝てない。俺は、世界を恨む自分の感情と戦うことにしたんだ」。
能天気な観客としては、いや世界と戦ってくれ!と言いたくもなるが、それはないものねだりだろう。
主人公が踏ん張って生きている姿に、打たれた。

娘を失うという体験を不幸にも共有してしまった主人公と、その親友のネイティブ・アメリカンの男性二人が、二人で座っている場面はとても良かった。
死のうと思っていた親友の男性は、死に化粧として顔にペイントをしている。顔面を青く塗って、その上から白のラインを引く化粧で、一瞬ギョッとしてしまう。
伝統的なペイントなのかなと思ってみていると、「誰も教えてくれないから自己流で塗った」と言う。
このセリフも良かった。
ユーモアと「少数民族」の伝統の断絶とが、同居している。
死のうと思っていたが、刑務所にいる絶縁した息子(上に書いたクズ)から電話があった。化粧を落としたら迎えに行こうと思う。そう語る男性の顔は、穏やかだ。
喪失と、ほんの少しの回復が、丁寧に追われていると感じた。
やはり脚本が良いのだ。

任侠映画的構造で、最後はしっかりと復讐をやり遂げるのも、好きな点だ。。
犯人たちはほんとうにクズであり、観客としてはもっと痛めつけて欲しかった気もする。
こう書いてしまうと、僕自身がダメ人間だということになるかもしれないが、個人による復讐の暴力はフィクションが持つ魅力だと思うから。

 

キネマ旬報』という広告収入頼みの映画PR雑誌があるが、そこでの評価は次のような感じ。
五つ星評価で、星5つが一人、星3つが二人。
星三つってことはないと思うが、謎の伝統だけしか誇れるものがないクソ雑誌なので仕方がない。
当然立ち読みで済ませる。
『映画評論』を確認したかったが、本屋にはないのであった。
大きな本屋に立ち寄っても、読みたい本がないのが悲しい。古本屋が楽しい。

すみません眠かったです『海を駆ける』43点

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ファンタジーっぽい作品と知って、やや嫌な予感がした。
ファンタジーといえば、邦画では基本に「心温まる」という感じで食傷気味。
でも、深田晃司監督ならば、「心温まる」系の最大公約数を狙った映画ではないだろうという信頼があったので、観ることにした。
信頼といっても、深田監督の映画は初めて見る。
ではなぜ信頼できるのかというと、このサイトでのインタビュー記事を読んで、関心を持ったからだ。
https://www.christiantoday.co.jp/articles/22964/20170105/fuchi-movie-fukada-koji-1.htm
恥ずかしながら、フランスで高い評価を得ていることさえ知らなかった。

さて、内容だが、インドネシア人と日本人の交流のなかに、トリックスターとして記憶喪失の男が来て、去って行くという話。
日本側は、スマトラ島北部のアチェという場所でインドネシア津波支援に関わるNGO職員・鶴田真由とその家族・友人。
鶴田真由のパートナーはインドネシア人で、息子はインドネシア国籍を選択している。
そこに、鶴田真由の姪がやってくる。目的はなくなった父親の遺骨を、父の思い出の場所に散骨すること。父の思い出の場所は、遺品の写真だけが手がかりだ。ということで、ここに一つ物語の推進力がある。姪の父親は、東日本大震災津波で死んだということになっているのかどうか、パンフレットを買っていないのでわからないのだが、どうもそんな気がするような描き方だった。思わせぶりだ。
他方、インドネシア側は、ジャーナリスト志望の女の子(イルマ)と、その幼馴染の男の子。イルマは学費が確保できずに大学進学をあきらめているが、ジャーナリストになるためにドキュメンタリーを撮ろうとしており、その対象が鶴田真由らのNGOなのだ。イルマの父親は、アチェ独立運動に関わり、インドネシア軍に拷問された経験を持つ。後遺症で足が不自由だ。幼馴染の男の子のほうは、津波で母を失っている。
これだけでもう映画のパーツは十分! という感じだが、そこにディーン・フジオカがやってくる。ある日海岸に漂流した彼は、記憶を失っており、名前もわからないので「ラウ」と名付けられる。「ラウ」とはインドネシア語で「海」という意味だそうだ。
「ラウ」は、不思議な力を持っており、手のひらから水を出したり、水をお湯に変えたり、人に幻覚をみせたり気絶させたり、ワープしたりとやりたい放題。

これだけ揃ったら絶対面白いだろうと思われるかもしれない。
私もそう思う。
でも、文字に起こすのと映画はやはり違って、観ている間は眠かった。
映画館の椅子が上等だったということもあり、ものすごく眠いのだ。
「ああ、なんかここに監督は意味を込めたんだろうな」というような場面が多いが、いまいちよくわからない。
ただ、映像のパワーは確かにあって、特に最後の場面はずっと見ていたいくらい。あとは、インドネシア人が幼少期に日本兵から習ったという「抜刀隊の歌」を歌う場面も、惹きつけられた。
俳優の演技も良く、好印象。
ただ、繰り返すが、ものすごく退屈。その退屈さのなかに「映画とはなにか」を考えさせる契機が多様に埋め込まれているとは言える。
文学や絵画と同様、描き方が大事なのであって、退屈とかいうのは野暮なのもわかる。わかるが・・・でもやっぱ退屈なのはダメだよねということで、43点。

竹馬でケンケンするオッサン

今日気づいたが、電車の窓に短冊がたくさん貼ってある。
子どもたちの願いが書かれた短冊が、横に6~7枚程度。。
七夕前後からの催しだと思うが、今日までまったく気が付かなかった。余裕がなかったからだろうか。
子どもたちの願いは他愛もないものが多い、たとえば次のよう。()は、それを読んでいたときの僕の心の声です。


「ピアニカでスポンジボブの曲をひけるようになりたい」(スポンジボブがなにか、わからないけど、ピアニカが懐かしい)
「たけうまでけんけんができるようになりたい」(かわいい)
「けいさつ官になりたい」(官だけ漢字でかわいい)
「たけうまでけんけんと○○(判読できず)がしたい」(かわいい)
「プールでおよげるようになりたい」(僕も泳ぎたい)
「たけうまでけんけんができますように」(しつこい。独創性というかもっと自分らしさを考えるべし)


なるほど、この保育所(幼稚園かも)では竹馬が流行っているのか・・・としみじみしていると、ふと気が付いた。
電車の窓に貼られた短冊だが、視線を下げると、向かいの座席に並んだおっさんたちが目に入るのだ。
おっさんたちと短冊が、対応しているように見える。短冊が、おっさんの切なる願いのように見える(というか、そう見たい)。
これがなかなか良い暇つぶしになるのだった。
この世の終わりみたいな顔で目をとじているおっさんの上に「たけうま」が位置する格好となっており、人生の妙味について、考えさせられる。
このおっさんが「たけうまでけんけん」しているところを頭に描き、そのイメージをかみしめる。
また、ものすごく太い男性の上には「プールでおよげるようになりたい」とあり、そら無理やわなお前は沈むわな、と思っていると乗り換えの駅についた。

今日も電車で本がよめなかった。

ようやく見てきた『万引き家族』 77点 

 

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先日、電車でオッサンが「『万引き家族』は意味が分からなかった」と言っているのを聴いた。
確かに、一言でなにかテーマを言えるような作品ではなく、「家族の不確かさ」と言ったところで薄っぺらくなるような、多義的で重い映画だった。
そもそも、一言で映画を言い表すような風潮はよくない。それで言いつくせたら、映画なんか誰も作らんって!
まあでも、会話のとっかかりとしては有効かな・・・とも思うので、普段は黙っている。

 

ところで、近年「オッサン」という言葉が指す年代の幅が伸びており、憂慮している。
60代は昔なら「おじいさん」にカテゴライズされるはずだが、いまは若々しい70代もいて、70代を「オッサン」と呼んでもなんの違和感もない。
「オッサン」という言葉にはなんとなく「現役感(下ネタではありません、念のため)」があるが、その意味では高齢者でも「オッサン」の社会になったのかもしれない。
では、「オッサン」の下限はどうか。
これもまた難しく、由々しい問題だ。

どうみても20代の若者が、自分が歳をとったなあと言いたくて「もうおれらオッサンやもんな」と言うのを年に一度くらいは聴くが、それを耳にするたびにビンタ、あるいは鼻にパンチしてやろうかと思う。まあ、現代におけるオッサンの下限としては30後半から40代くらいが妥当だろう(女性の「おばはん」問題はここでは立ち入らない。しかし「オバタリアン」ってすごいネーミングセンスよな。ギャグとはいえ、いろいろ問題あるよな)。
まあ、要は「心が若ければいつまでもパワーはある」という『週刊現代』的な落としどころになってしまうのが悲しい。
というか、新聞広告でどうしても目に入ってくる『週刊現代』の「死ぬまでSEX」特集。

あれは浅ましいからやめてくれ。見たくないけど、目に入ってきて不愉快だ。

あれはセクハラにならないんですか!? だれか問題にしてくださいほんとうに。そういうのはこっそりと読むもので、ネットでじゅうぶん。ネットを触る習慣がない高齢者目当てに、SEX特集を前面に押し出している『週刊現代』は、もう終わったメディアなんだろう。
それなりに売れるから延命措置としては有効なんだろうけど、バカな社員編集者が定年まで喰いつぐ以外の意味はないし、あんな広告を載せるくらいなら(まあひどい広告は多いが)断ればいい。それで利益が減って、回りまわって部数が減ってもいいじゃないか。大部数を誇るような時代は終わったから、そういうのは読売の高齢者たちに任せとけばいい。クオリティペーパーが読みたいです。ま、ダウンサイズの方向ではまともな議論ができないのはどこの組織も同じかもしれんが・・・

 

話がどんどんそれるので、このあたりで強引に戻そう。

で、話はようやく『万引き家族
三度目の殺人』のときに感じた「これみよがし」の是枝演出は少なかったように思う(また話がそれるが、映画芸術ワースト10で『三度目の殺人』が1位だったようだが、理由が知りたい。しかし、バックナンバーを入手するほどではない)。
ないものねだりだが、「どうですかみなさん、さりげないでしょ?? さりげない演技でしょ~~???」と言われているような気は少ししたけれど。

『「血」の繋がりを国や自治体が認めたら親子』という考え方は近年急速に相対化されつつある(と思う)。
「親子」だけでなく「家族」にしても同様だ(と思う。「伝統的家族観」を振りかざす人間はバカかかわいそうな人だから笑顔で無視すべし)。
そう考えると「なぜそこまでして家族という形態を求めるのか?」という疑問が大きくなる。
最近ときおり「ゆるいつながり」というような言葉をきくが、「うん、それでいいやんか」と思える人は今後増えるはずだ。
そう考えるので、結果的に「疑似家族」の形態を数年間保った『万引き家族』の人たちが、不思議だった。
逸脱集団として描く必要はどれほどあったのかなと思う。
でも、近年社会問題の貧困や「再チャレンジ不可能な新自由主義的風潮」なども、監督としては描きたかったのか。

万引き家族」を構成する彼ら彼女らの過去は物語が進むにつれて次第に明らかになるが、そのすべてが説明されるわけではない。
このあたりの情報の出し入れが巧みだった。
たとえば、安藤サクラが演じる女性は、親に必要とされず、虐待さえされていたという過去が、お風呂の場面で示されていた。それにより、小さな女の子を子どものように育てている彼女の微妙な気持ちが微妙なまま観客に投げ出されていると感じた。
そこにこそ、この映画の見どころがある。そうした細部の積み重ねが素晴らしく、それを味わうのがよいのではないか(特に最後の安藤サクラの涙)。

あと、監督が日本政府(?)からのお褒めの言葉(勲章?)を辞退したことが話題になっているようだ(全然内容はしらないが毎日の報道をチラッとみた)。それを話題に取り上げるマスメディアの気が知れないので、ちゃんと読んでいない。
受けるも断るも自由だろう。「国の金をもらってるのに」式のコメントがあるようだが、それを報じる必要はないって。
議論の価値があると思うものを取材して乗せるべきだが、「受けるも断るも自由」という答えは揺るがないのだし、報じることで「敵」に塩を送っている気がするなあ。
むしろ、そういう人には「お前、映画ちゃんと観たんか?」って言えばいいと思うよ。映画の内容の議論をしたらいいのにね。

知ってるものを観たいわけじゃない 『レディ・プレイヤー』58点

 

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スピルバーグのエンターテイメントって、何を観ても「観たことある感」がある。それはたぶん、エンターテイメント映画の文法の一つをつくったスピルバーグの手法がすごすぎて、その後のスタンダードになったからだろう。

やっぱりスピルバーグはすごい・・・でも、ものたりない。

で、観たことをすっかり忘れていた『レディ・プレイヤー』。
忘れていたくらいなので、特に感想はない。

スピルバーグらしい配慮の行き届いた人物設定と、基本誰も傷つかないストーリーで、安心してみることができる。
よくできているが、コンスタントに平均点+10点を取る秀才学生のようなツマラナサを感じる。
「そんなことして楽しい?」とまでは言えない程度に優秀だが、突き抜けるものはない。
確かにすごいし、僕にはできないけれど、物足りなさは否めない。

秀才と言いながら点数が低い理由は、有名キャラの寄せ集め感が嫌味だったからだ。
アキラのバイク、キングコングハローキティガンダムアイアン・ジャイアントストリートファイターなどなどがあたりまえのように登場して、それを見る嬉しさは間違いなくある。
でも、ぼくは「知っているものを観に行いきたい」というわけじゃない。
たとえそれがキャラクターであっても、シリーズ1作目の場合は、少しでも観たことないものを多く観たいなあ。
保守的なんでしょうかね?