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映画メインで諸々の感想を

竹馬でケンケンするオッサン

今日気づいたが、電車の窓に短冊がたくさん貼ってある。
子どもたちの願いが書かれた短冊が、横に6~7枚程度。。
七夕前後からの催しだと思うが、今日までまったく気が付かなかった。余裕がなかったからだろうか。
子どもたちの願いは他愛もないものが多い、たとえば次のよう。()は、それを読んでいたときの僕の心の声です。


「ピアニカでスポンジボブの曲をひけるようになりたい」(スポンジボブがなにか、わからないけど、ピアニカが懐かしい)
「たけうまでけんけんができるようになりたい」(かわいい)
「けいさつ官になりたい」(官だけ漢字でかわいい)
「たけうまでけんけんと○○(判読できず)がしたい」(かわいい)
「プールでおよげるようになりたい」(僕も泳ぎたい)
「たけうまでけんけんができますように」(しつこい。独創性というかもっと自分らしさを考えるべし)


なるほど、この保育所(幼稚園かも)では竹馬が流行っているのか・・・としみじみしていると、ふと気が付いた。
電車の窓に貼られた短冊だが、視線を下げると、向かいの座席に並んだおっさんたちが目に入るのだ。
おっさんたちと短冊が、対応しているように見える。短冊が、おっさんの切なる願いのように見える(というか、そう見たい)。
これがなかなか良い暇つぶしになるのだった。
この世の終わりみたいな顔で目をとじているおっさんの上に「たけうま」が位置する格好となっており、人生の妙味について、考えさせられる。
このおっさんが「たけうまでけんけん」しているところを頭に描き、そのイメージをかみしめる。
また、ものすごく太い男性の上には「プールでおよげるようになりたい」とあり、そら無理やわなお前は沈むわな、と思っていると乗り換えの駅についた。

今日も電車で本がよめなかった。

ようやく見てきた『万引き家族』 77点 

 

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先日、電車でオッサンが「『万引き家族』は意味が分からなかった」と言っているのを聴いた。
確かに、一言でなにかテーマを言えるような作品ではなく、「家族の不確かさ」と言ったところで薄っぺらくなるような、多義的で重い映画だった。
そもそも、一言で映画を言い表すような風潮はよくない。それで言いつくせたら、映画なんか誰も作らんって!
まあでも、会話のとっかかりとしては有効かな・・・とも思うので、普段は黙っている。

 

ところで、近年「オッサン」という言葉が指す年代の幅が伸びており、憂慮している。
60代は昔なら「おじいさん」にカテゴライズされるはずだが、いまは若々しい70代もいて、70代を「オッサン」と呼んでもなんの違和感もない。
「オッサン」という言葉にはなんとなく「現役感(下ネタではありません、念のため)」があるが、その意味では高齢者でも「オッサン」の社会になったのかもしれない。
では、「オッサン」の下限はどうか。
これもまた難しく、由々しい問題だ。

どうみても20代の若者が、自分が歳をとったなあと言いたくて「もうおれらオッサンやもんな」と言うのを年に一度くらいは聴くが、それを耳にするたびにビンタ、あるいは鼻にパンチしてやろうかと思う。まあ、現代におけるオッサンの下限としては30後半から40代くらいが妥当だろう(女性の「おばはん」問題はここでは立ち入らない。しかし「オバタリアン」ってすごいネーミングセンスよな。ギャグとはいえ、いろいろ問題あるよな)。
まあ、要は「心が若ければいつまでもパワーはある」という『週刊現代』的な落としどころになってしまうのが悲しい。
というか、新聞広告でどうしても目に入ってくる『週刊現代』の「死ぬまでSEX」特集。

あれは浅ましいからやめてくれ。見たくないけど、目に入ってきて不愉快だ。

あれはセクハラにならないんですか!? だれか問題にしてくださいほんとうに。そういうのはこっそりと読むもので、ネットでじゅうぶん。ネットを触る習慣がない高齢者目当てに、SEX特集を前面に押し出している『週刊現代』は、もう終わったメディアなんだろう。
それなりに売れるから延命措置としては有効なんだろうけど、バカな社員編集者が定年まで喰いつぐ以外の意味はないし、あんな広告を載せるくらいなら(まあひどい広告は多いが)断ればいい。それで利益が減って、回りまわって部数が減ってもいいじゃないか。大部数を誇るような時代は終わったから、そういうのは読売の高齢者たちに任せとけばいい。クオリティペーパーが読みたいです。ま、ダウンサイズの方向ではまともな議論ができないのはどこの組織も同じかもしれんが・・・

 

話がどんどんそれるので、このあたりで強引に戻そう。

で、話はようやく『万引き家族
三度目の殺人』のときに感じた「これみよがし」の是枝演出は少なかったように思う(また話がそれるが、映画芸術ワースト10で『三度目の殺人』が1位だったようだが、理由が知りたい。しかし、バックナンバーを入手するほどではない)。
ないものねだりだが、「どうですかみなさん、さりげないでしょ?? さりげない演技でしょ~~???」と言われているような気は少ししたけれど。

『「血」の繋がりを国や自治体が認めたら親子』という考え方は近年急速に相対化されつつある(と思う)。
「親子」だけでなく「家族」にしても同様だ(と思う。「伝統的家族観」を振りかざす人間はバカかかわいそうな人だから笑顔で無視すべし)。
そう考えると「なぜそこまでして家族という形態を求めるのか?」という疑問が大きくなる。
最近ときおり「ゆるいつながり」というような言葉をきくが、「うん、それでいいやんか」と思える人は今後増えるはずだ。
そう考えるので、結果的に「疑似家族」の形態を数年間保った『万引き家族』の人たちが、不思議だった。
逸脱集団として描く必要はどれほどあったのかなと思う。
でも、近年社会問題の貧困や「再チャレンジ不可能な新自由主義的風潮」なども、監督としては描きたかったのか。

万引き家族」を構成する彼ら彼女らの過去は物語が進むにつれて次第に明らかになるが、そのすべてが説明されるわけではない。
このあたりの情報の出し入れが巧みだった。
たとえば、安藤サクラが演じる女性は、親に必要とされず、虐待さえされていたという過去が、お風呂の場面で示されていた。それにより、小さな女の子を子どものように育てている彼女の微妙な気持ちが微妙なまま観客に投げ出されていると感じた。
そこにこそ、この映画の見どころがある。そうした細部の積み重ねが素晴らしく、それを味わうのがよいのではないか(特に最後の安藤サクラの涙)。

あと、監督が日本政府(?)からのお褒めの言葉(勲章?)を辞退したことが話題になっているようだ(全然内容はしらないが毎日の報道をチラッとみた)。それを話題に取り上げるマスメディアの気が知れないので、ちゃんと読んでいない。
受けるも断るも自由だろう。「国の金をもらってるのに」式のコメントがあるようだが、それを報じる必要はないって。
議論の価値があると思うものを取材して乗せるべきだが、「受けるも断るも自由」という答えは揺るがないのだし、報じることで「敵」に塩を送っている気がするなあ。
むしろ、そういう人には「お前、映画ちゃんと観たんか?」って言えばいいと思うよ。映画の内容の議論をしたらいいのにね。

知ってるものを観たいわけじゃない 『レディ・プレイヤー』58点

 

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スピルバーグのエンターテイメントって、何を観ても「観たことある感」がある。それはたぶん、エンターテイメント映画の文法の一つをつくったスピルバーグの手法がすごすぎて、その後のスタンダードになったからだろう。

やっぱりスピルバーグはすごい・・・でも、ものたりない。

で、観たことをすっかり忘れていた『レディ・プレイヤー』。
忘れていたくらいなので、特に感想はない。

スピルバーグらしい配慮の行き届いた人物設定と、基本誰も傷つかないストーリーで、安心してみることができる。
よくできているが、コンスタントに平均点+10点を取る秀才学生のようなツマラナサを感じる。
「そんなことして楽しい?」とまでは言えない程度に優秀だが、突き抜けるものはない。
確かにすごいし、僕にはできないけれど、物足りなさは否めない。

秀才と言いながら点数が低い理由は、有名キャラの寄せ集め感が嫌味だったからだ。
アキラのバイク、キングコングハローキティガンダムアイアン・ジャイアントストリートファイターなどなどがあたりまえのように登場して、それを見る嬉しさは間違いなくある。
でも、ぼくは「知っているものを観に行いきたい」というわけじゃない。
たとえそれがキャラクターであっても、シリーズ1作目の場合は、少しでも観たことないものを多く観たいなあ。
保守的なんでしょうかね?

 

 

エア連載 「俺の折々の音」~その1

七年くらい続けてきた新聞購読を辞めようかと考えているが、「折々のことば」は好きだ。もちろん「折々のうた」も好きだった。
心のなかの最もミーハーな部分が、「おいどんも『折々』したいでゴワス」とうるさいので、素直にしたがうことにした。

いいじゃないか別に、だれに迷惑をかけるわけでもないし!!!

と、まずは軽く逆ギレしたところで、内容よりもタイトルの悩みに直面した。
「折々の○○」というタイトルにして、鷲田先生のは病気か脱税的不祥事か何かが原因でもう終わったということにしてしまおう。だから続編が僕に回ってきた、という設定が良いだろう。

ここまでは、わりとすぐに決まった。

では「折々」の「何」にすればよいのか? 

「折々」の「何」なのか??

短い脳内会議の結果、「端的な言葉で文化に関わること」のなかから、消去法で「音」が残った。

アルファベットの「О(オー)」を連打する感じが気持ちよく、一人でご満悦の賢者モード。音楽はたいして詳しくないが、「О」の連打の快感の前では、それは些細なこと。
こういうものは、「見る前に飛べ」、「石の上にも三年」、そして「中身より外見」なのだ!

いや、待てよ・・・「折々の音」だけでは、なんだかマジっぽさがあって、居心地が悪くないか。
脳内を「ダダ漏れ」させることで精神衛生を保つことを意図して始めたわけだから、居心地の良さは譲れない。
居心地の良さのためには、ある程度のバカっぽさが必要だ。「勝手にやってます、テヘッ」という雰囲気も欲しい。

そう考えて、「俺の」か「俺も」を頭につけることにした。

かくして
「俺の折々の音」

「俺も折々の音」
の二択が残ることになる。
いわば、いきなり決勝戦である。

これは甲乙つけがたい。
「俺の」は、礼儀正しく、静かな優等生タイプだ。ほんとうは「僕の」と言いたいけれど、少しバンカラを気取って「俺」を使っているような、端正な若さがあるように思う。俺も昔はそういう時代があったよ・・・という共感を得られるかもしれないが、できればもう少しふざけたい。

他方、「俺も」はどうか。
「俺も折々の音」には、「どうせ二番煎じですよ、ええそうですよ」というモノマネタレント的なところがある。
「俺も」には、セロハンテープを貼って研ナオコのモノマネをしていた清水アキラに感じる哀しさが漂っているのだ。
ここで清水アキラ論、いや「モノマネ四天王」なる、日本史上最も存在意義のない「四天王」を論じたいところだが、それは次回以降に回そう。
司会の清水アキラブックオフの関係や、ヘッドホンをちゃんと付けずに「手で持って片耳にあてて」聴いていた野口五郎についても触れたいが、それをやればナンシー関っぽくなるだけなので、泣く泣く今回は割愛(たぶん一生書かないけど)。

話を戻そう。
「俺の」か「俺も」か・・・それが問題なんだ。
歩きながら、電車のなかで、そして仕事をしながら、考えに考えた。
そして、僕は、ひとりで、たったひとりで、「俺の」を選んだんだ……。

 

さて、「俺の折々の音」は、当然ながら音楽を取り扱うが、実際は歌詞に触れることが多くなるだろう。
だから正確には「俺の折々のことば」なのだが、それじゃあほら、鷲田先生の丸パクリじゃないですか。
以上のような経緯で、タイトルだけは決めたが、いろいろ忙しいし、きっと何も書かないと思う。
でも、気分転換に書くかもしれない。
第一回は、やっぱり宇多田ヒカル甲本ヒロトか、中島みゆき、がいいよね?

あ、でもやっぱ「俺も」のほうがいいかな。ま、どうでもいいか、どうせエア連載だし!

 

こうして、また誰も読まない文字データが、ネット上に増えた。

私立バーフバリ大学 『バーフバリ 王の凱旋』67点

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話題になっていた『バーフバリ』を観たが、長時間のうち、心が動いたのはダンス&音楽のシーンくらいで、あとは動かざること山のごとし。
山のフドウになって、涙目の子どもたちを抱きしめたい気持ちになった。

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これなら別に漫画で十分という感想。ぎくしゃくしたCGも、ゲームみたいだったなあ。
ただ、戦いの場面はありえなさは文句なく楽しめた。

あとは何を観たか、観るたびに忘れてしまうので、思い出したらまた書こう。

話は変わるが、電車に乗ってると大学の広告をよく目にする。
おしゃれな感じを演出して学生や教員のイケてる写真を使ったり、取り組みを紹介したり、漫画をつかったりといろんな工夫が面白いと言えば面白い。
週刊誌の見出しを模した近大の吊り広告も、つい読んでしまう。
各私立大学は教育ビジネスの一環として、広報戦略に力を注いでいることがよくわかる。
少子化や大学の淘汰が言われるなかで、受験生獲得にむけて頑張っているなあと、しみじみした気持ちになる。

こうした流れのなかで、多くの大学は「学生や受験生に好印象をもってもらえるキャンパスづくり」に心を砕いているようだ。
関東ならば都心回帰が進んでいるが、そうした立地だけではなく、具体的な空間がどんどんオシャレになっていく。
統一的イメージで学舎を作り、図書館もオシャレに改装する。
アクティブラーニングということで、学生たちが楽しんで議論できる空間をつくり、自習室も充実している。そういう場所は、たいてい透明な壁とホワイトボードの壁になっていて、大学のパンフレットなどで使われる。
あるいは、留学生との交流や、外国人教員との交流も、パンフレットで多用される「コンテンツ」だ。
なんだか、「学問テーマパーク」という感じがして、個人的にはビミョーな感じがする。
そこでは「何が学べるか」も、アトラクションみたいでなんだかなあ。
大学と広報って、相性が悪いと思うけれど・・・。なぜなら、大学で「得」することというのは、テーマパークのように即自的に表れるものではないから。学生は「お客様」じゃないから。
ということで、文字だけの「募集要項」があればパンフレットとかいらないんじゃないですかね。

話はかわるが、親が安心してお金を出してくれるような、クリーンで安心な大学空間を演出するのは大変だろうなと同情する。
形から入るのはよいが、そんなことに金を使うなら、常勤・非常勤をとわず教師を増やして、もう少し少人数制の授業を増やしてはどうかと思うが、結局それは「お金」の話になってしまい、たいていは難しいのだろうと想像する。

なぜいきなりこんなことを書いたのかというと、簡単な話で、観た映画を思い出せないからだった・・・
バーフバリみたいなヒーローがやってきて、テーマパーク大学を変な攻撃法でむちゃくちゃにしてくれる映画があったらいいなあ。あるいは、バーフバリ大学にして、一日二回、全員で踊る時間をつくればどうでしょうか? 授業をミュージカルでするとか。
こういうときにバーフバリを思い出すんだから、記憶に残る良い映画だったということかもしれない。

『アンロック/陰謀のコード』 37点

 

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どこかでだれかが褒めているのを読んだので気になっていた。
そろそろ公開が終わりそうなので、レイトショーにて鑑賞。


主人公のトラウマ、テロをめぐる攻防、仲間のなかの内通者、敵スナイパーの顔、最後のカウントダウン演出、B級俳優の安い演技。とにかく、ものすごい既視感。
いま流行(?)の「強い女性ヒロインによるアクション・サスペンス」みたいな感じで小銭を稼ぎをしよう・・・という製作者側の志の低さが如実に表れている。
ひどい既視感で、見終わったばかりなのにほとんど上手く思い出せないが「ギャグなのかな」と思った点を書き残しておく。

この手の映画では、ラスボス(たいてい意外でもないんでもない人物)が、犯行の動機を主人公に語る場面がある。
で、『アンロック/陰謀のコード』のラスボスが語る犯行の動機は「国や国民に生物テロの恐怖を分かってもらうため」だった(記憶違いでしたら訂正します)。
曰く「9.11の前にも、貿易センタービルでは爆破事件が起こっていた」「過去の教訓を活かせなかった」「私は国を愛している」「生物テロの恐怖を分かって」「これも国のためだ」うんぬん。
舞台はイギリスなのだが、敵たちはアメリカ代表VSイギリス代表のアメフト大会でウイルスを散布し、それで観客の体内にウイルスを仕込んで、アメリカに持ち帰ってもらうという面倒なことを実行しようとするのだ。
なんかもうムチャクチャで、正直よくわからなかった。

最近知った言葉に「マクガフィン」というものがある。
せめて観客が違和感を持たないように、あるいはこれなら仕方がないと思える程度に、もうすこし上手に「マクガフィン」を使えよと思った。監督もええ年してこのクオリティは恥ずかしいし、チャンスは若手に譲るべし。

 

まごうことなき駄作だが、『ひるね姫』よりはマシ 『ダウンサイズ』22点

 

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このポスター。小学生的発想でダサく、これでは観に行きたいと思えない。

特に「ダウンサイズ」の文字がどんどん小さくなっていく感じが、小学生的で、フォントも工夫がない。

なにが言いたいのかというと、このポスターのデザインを考えた人も「この映画に愛がないのだろうな、乗り気じゃないのに仕事で作ったんだろうな」という感じが伝わってくる。

そもそもマット・デイモンが主役なのに、ほとんど話題になっておらず、その時点で嫌な予感しかしない。

しかし、僕は日常から逃れるため、映画館に足を運んだのだった・・・


で、結論から言うと、クソつまんない。

体を小さくする技術が実用化された近未来。資産も数十倍になるということで、マット・デイモン演じる男とその妻がダウンサイズを決意する。
といっても、社会はまだダウンサイズの是非について、統一した見解を出しておらず、賛否両論が渦巻いている・・・
と、ここまでは面白い。
さらに、ダウンサイズの際に一悶着あり、マット・デイモンだけがダウンサイズしてしまう。
これも面白い。
その後も、義足のベトナム人女性活動家との交流や、彼の特技(作業療法士)を活かして底辺社会に溶け込んでいくあたりも面白い。
では、何がつまらないのか?


原因はいくつかある。
テンポが悪い。小さい人間になったことによる映画的驚きの描写が少ない。などが挙げられるが、やはり脚本に問題がある。
脚本の最大の問題は、ラスト20分くらいだ。
南極の氷から出たガス(北極だったかも)により、地球が滅亡する! という話が、まったく唐突に挿入されるのだ。
で、最初にダウンサイズした人たちが暮らす村は、自分たちだけのシェルターに入って助かろうとする。
そこにマット・デイモンも加わるのか・・・それとも・・・といったあたりの演出が、つまらない。
深刻さは足りず、かといってギャグも面白くないのだ。
かなりキツかった。。。

唯一、この映画で評価すべきは、マット・デイモンの演技だろう。
「冴えないけど根は良い奴」という役がこんなに上手だとは思わなかった。
ハイライトは二カ所ある。
一つは、上の階のパーティーに入り込んで、彼なりにパーティーを楽しもうと頑張る描写。
二つ目は、世界滅亡前(なんのこっちゃ、と思う方は是非劇場へ)に、カルト集団とともに夕日を浴びて民族音楽を打ち鳴らす場面である。
この二つの場面はいかにも馬鹿な感じが非常に上手くでていた。

マット・デイモン
万里の長城の映画もそうだが、出る作品を選ばないプロフェッショナルな態度に好感を持ったことは事実であり、これからも大味でバカっぽい作品に出て、順調に存在感を薄めていくのだろうという予感がするのだった。

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