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映画メインで諸々の感想を

『ラ・ラ・ランド』74点

開始30分くらいはきつかった。
お互い最初は相手のことを「何だよあいつ!」と思っているけれど、何度か偶然会ううちに「・・・あれ、なんか惹かれてる・・・」となる。
こういうのはもう何度も何度も観た気がして、嫌な予感がしたのだった(嫌な予感は最終的に外れたけど)。
女優志望でウェイトレスをしながらオーディションを受けている女性と、「俺、自分の店を持ちたいねん」と豪語する勘違いミュージシャン。
時代設定も、「あれ、これは60年代?80年代? でもカーステの音楽は今っぽいのもあるな」とか思っていたら、スマホが鳴ってるし「やっぱ現代なのか!?」と混乱。
なんだかうまく映画に入れないなあ、と思っていたが、ゴズリングがバンドメンバーに加入、エマ・ストーンの一人芝居が失敗するあたりから「そうそうこういうのを待っていた」と身を乗り出すことになった。
エマ・ストーンが最後に受けるオーディションで歌う「夢追い人に乾杯を」的な歌詞もぐっときた。
愛を誓ってそれぞれの夢に向かうところから、ラストの妄想シーンまではとても気持ち良くて「苦い」演出だったと思う。

ちなみに、ライアン・ゴズリング
あまり好きになれなかったけれど、どこか間の抜けたような顔が今回はとてもよかった。
「あ、なんかこいつ、大成はしなさそう」という顔だな、と初めて見た時から思っていたが、ラスト、感情をこらえているときの表情がとてもよいと思った。
(というか、こうして他人の容姿をからかったりすることは、基本的にはダメなのだけれど、俳優や芸能人に関してはそれができてしまう。
そう思うと、俳優や芸能人は大変だし、ありがたい存在だ)

空に浮かんだり、何なんだこのミュージカル演出!? 
と思っていたら、往年の名作の再解釈だったとネットで知り、「それも好物!」
ということで評価はうなぎのぼりで74点!
ラブストーリーとミュージカルにまったく関心がないのでほとんど見ないし、それゆえまったく批評眼がないわけだが、これまでみたなかでは最高レベルだった。

不満点としては、結局よくわらないまま無茶苦茶成功してたエマ・ストーンに納得がいかない。
そのへんを描いてくれないと「夢追い人に乾杯を」とか言われても説得力が薄いし、夢崩れてどうしようもない人間のこともちゃんと描いてくれないと嫌だ。
夢を描く映画、夢を売る商売なのはわかるけど、もっとクズをたくさん出してほしい。
ということで、ないものねだりはこのへんで。

王様のためのホログラム 65点

西欧人の主人公(男)が、あるミッションを持って「異文化」に乗り込んでいく。
最初は文化の違いに戸惑い、挫折しそうになるが、バディを見つけ(女性のパートナーも見つけ)次第にその土地に溶け込み始める。文化の差を尊重しつつ、共存する方法を見つけるのだ。
そして、主人公の当初のミッションは失敗するが、その代わりに何らかの深い達成感を得て、物語は終わる・・・

こう書くと、いくらでも同じ類型の物語がありそうだが、『王様のためのホログラム』は、まさにその構図にあてはまる。
行き先は中東サウジアラビア
ということは、オリエンタリズム満載か!? となったが、そのあたりは安心して見れた(もしかしたら気づいていないだけかもしれないが)。
しかし、コメディとしての面白さは期待外れ。
上映前までうるさかった後ろの席の外国人三人組も、ほとんど笑っていなかった。

開始1分のハイテンションが続けば、もっと楽しく観られただろうが、途中はやや眠かった。
原因は、脚本が散漫だったこと。デンマーク人女性の存在は不要だったのではないか。
主人公の父親の中国バッシングも、「なんだかなあ」と思ったり。
全体的には、まとまりの良い小品という印象。

見どころは、トム・ハンクスとお医者さんが海に潜るシーン。
60歳のトム・ハンクス、頑張ってたなあ。

スノーデン 68点

すっかり忘れていたスノーデン事件。
考えてみれば不思議である。
アメリカ国家安全保障局NSA)が、日本の政治エリートや行政機関から、私たち「一般人」にいたるまで、あらゆる人間のネット上での個人情報を、いつでも不法に閲覧する能力を持っており、現に盗聴行為を行っているという告発のことを、僕は「すっかり忘れていた」のである。
面白い気もするし、怖い気もする。

さて以下、感想だが・・・
題材が題材なだけに仕方のないことではあるが、映画的な面白さには欠けると言わざるをえない。
面白いと思ったのは、割とわかりやすい「愛国的人物」だったスノーデンが、恋人との関係・日々の業務を通して、政府に疑問を持ち始めるという筋書きである。

特に上司たちの描き方が面白い。

スノーデンの上司の顔がむちゃくちゃ怖くて、大写しになる場面では笑いかけた。

ハワイへの異動を知らされる狩りの場面では、「ああなんかこういう男性ばかりのレジャーも、結局は仕事(こいつできるかどうかの評価とか、交渉の場)なんだなあ、嫌だなあ・・・」としみじみ思えた。

ハワイでの上司は「キャプテンアメリカ」と揶揄されるくらい、わかりやすく愛国的。

恋人役の女性にちょっとイラっとしたが、あそこを丁寧に書かないと、スノーデンが「国を捨てる」という決断の重みが出ないし、仕方ないのかもしれない。
でも、それならば、スノーデンの家族の話をもっと書き込めばいいのにと思った(スノーデン側からストップがかかったのか)

どうでもいいが、ニコラス・ケイジがちょい役で出てきたので、個人的思い出話を。
僕の母は、ニコラス・ケイジを、「ニコラス刑事」というニックネームだと長らく思い込んでいた。「なんか刑事役やってなかった?」と言っていた。まあ、間違ってはいないのかな。

ドキュメンタリーがあるらしいが、わざわざそれを観ようとは思えなかったので、68点。

ドクター・ストレンジ 7点

僕がこれまで映画館で観てきた作品は、これに較べたらとてもレベルが高いのだなあと思わせてくれた。これまで観てきた映画に心から感謝できる、とてもすてきな作品だった。
迷っている人は観ない方がいいと思う。

開始2分くらいでヤバい雰囲気プンプン。
天才外科医の主人公による手術の場面から始まる。
俺天才だからこれくらい余裕~、という感じで、ipodから流れる音楽に軽くノリながら手術する主人公。
手術室で音楽が鳴り、医者たちに笑顔がこぼれ、なんとなく楽しそう、という時点でイヤだった。その上、手術室で音楽クイズみたいなことも始める始末。
多くの観客は「こいつらみたいに手を抜く医者に手術してほしくないな」と思うんじゃないだろうか。
ここで、
「あ、リアリティーのラインを随分と下げてみなければならないのだな」
と覚悟した。
「これはマンガなんだ。これは少年マンガ。そう思って観よう」
決めて椅子に座り直した。

イラっとする天才外科医は不注意な事故で両手の機能をほとんど失う。
リハビリでなんとか生活できるレベルには戻るも、現代医学ではこれ以上の回復はないとわかり絶望する。そこで、ネパールのカトマンズに渡って、謎の組織による一種の魔術を授けられる。
この謎の組織での修行の場面が、長くてツマラナイ。

主人公は、当たり前だが、最初、魔術的世界の存在を信じない。
そこで、師匠役の丸坊主の女性が、魔術を信じさせるために主人公を精神世界に送る。
その精神世界の造形が、ダサすぎる。
発想が70年代的というか、サイケな感じを出したいのかもしれないが、面白くない。
主人公は修行中にいろいろと本を読むが、本を取るときや頁をめくるときの手の動きをみていると「手術は無理でも、十分生活できるのでは??」
という気持ちになる。
そもそも、かなり早い段階で主人公が事故を起こして手の機能を失うため、彼の医者としての矜持が全く伝わらない(彼の手術シーンは前述のような不愉快なイメージしか残らない)。

まあそれでも、戦闘シーンが面白かったらいいか~、と思っていたが、これもひどい。
この映画の売りである『インセプション』的映像は、撮り方が悪いので壮大な感じがせず、ちまちまCGを使ってるなあ・・・という感じしかしない。
格闘シーンも、ごちゃごちゃして動きが把握しずらいし、ようやく盛り上がり始めたら、なんか急に登場人物たちが議論を始めたり、コメディっぽい間(マ)があったりと、テンポがとても悪い。
ラスボスみたいなやつは、造形がひどいし、結局馬鹿みたいな「交渉」で解決してしまう・・・(ここも相当ひどい。映画館では笑い声が起こったが、それは失笑であろう)。
脇役全員に魅力がないのも悲しい。

悲しくて、帰りたくて、脳内に『悲しい色やね』の「逃げたらあかん 逃げたら」が流れたのだった。

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監督・脚本は同じ人物だが、この人は完成したフィルムを通して観たのだろうか?
観ているはずだが、なぜこれでOKを出せたのだろうか?
製作会議や現場で、誰かが「はいっ!意見があります、この演出は変だと思います!」と言えなかったのだろうか?

言っても無視されたのか。
不思議である。

プロたちがお金と時間をかけて作った作品をけなすのは、失礼だとは思うが、完璧な駄作を観た。
続編をつくる気マンマンっぽいが、やめたほうがいいと思う。

悪口ばかりになってしまったけれど、悪口のほうが楽しいし、結局のところ、いろいろ言いたくなる映画だったわけで、その意味では「7点」というのは低すぎるかなと自問自答した。しかし、自問自答しても、100点満点の7点である。

 

『沈黙』 73点

遠藤周作の原作を読んだとき、迫害を受ける民衆の姿がただただ痛ましく、読むのが辛かった思い出がある。

映画化となれば、当然、拷問の場面を克明に描くことになるのだろう。
そう思って観に行ったら、やはりその通り。

荒波に打たれ続ける、藁を巻いて泳げない状態で海に落とされる、逆さに吊られ続ける・・・。

その時のキリシタンたちのうめき声、叫び声、泣き声が辛い。
BGMがほとんどない映画だったせいもあり、人間の声が耳に残りやすく、それは良いのだが、苦悶の声までもクリアだった。
にもかかわらず神は「沈黙」するのか? という問いを突き付けたいのは嫌というほどわかる。
でも、途中からそれに耐えられず、パードレたちに対して「早く棄教してください」と思うようになり、終盤は「早く棄教しろよ!」と怒りすら覚えた。
観ていても「信仰とは何なのか・・・?」と深刻な顔で考える気にはなれず、あんな恐ろしいことになるくらいなら「信仰の自由」は確保しよう!としか思えない。

 

ウルフ・オブ・ウォールストリート』がとても面白かったスコセッシだが、今回は乗れなかった。映画館を出たら寒いし・・・夏に観たかったかな。なんとなく。

  

ちなみに『キネマ旬報』2月上旬号によると、スコセッシが『沈黙』の映画化を構想し始めたのは1988年。
1991年には、ニューヨークのホテルで遠藤周作に会い、直接映画化をお願いしたとのこと。

キネマ旬報』の記事で、スコセッシが、面白いことを言っていた。
今回の映画では建築物にこだわったが、畳が難しかったというのだ。
畳の上での芝居を撮ろうとしたが、自分の空間感覚が変わってしまい、うまく撮れないのだという。
それがどの程度関係しているのかはわからないが、カメラの位置や俳優の動きは、日本人技術スタッフや俳優に任せる部分も多かったとのこと。

 

最後にスコセッシが70年代の日本映画について語っているところを引用しておく。
「70年代初めの日本映画には、すべての要素があります。みな日本映画のようにやろうとしたのです。日本のヌーヴェル・ヴァーグ、すなわち大島渚今村昌平篠田正浩、彼ら驚くべき才能から、私たちはどんどん学びました。ニューヨークでもロスでも、毎週彼らの新作が封切られていたのです。」
おもしろい。

 

『アイ・イン・ザ・スカイ』 78点

戦争の現在地を鋭く捉えた映画、ということになるだろう。

 

ケニアの過激派テロ組織が、新たな自爆テロを計画している。
この組織のメンバーにはイギリス人やアメリカ人もおり、どうやら世界中から「兵士」をリクルートしているようだ(明らかにISを想定している)。
長年この組織を追いかけてきたイギリス軍だが、その監視の仕方がとても現代的だ。
アメリカ軍とイギリス軍は、上空のドローンから敵を監視する。ケニアの現地部隊はハイテク機器(あの虫型の移動カメラは実在するのか?)で室内までも見通すことができる。
その映像を、ロンドン、ハワイ、ラスベガスで政府高官や軍人たちが見守っている。

標的となるテロ集団をドローンから攻撃する予定だったが、アジトの近くにはパンを売る少女がおり、いま攻撃すると少女を巻き込みかねない。

かといって、攻撃を延期すれば、自爆テロにより多数の市民が死傷する可能性がある。
どちらを選ぶべきなのか・・・というある意味ではよくある問いで、観客を引っ張るのである。

僕はこういう「究極の選択」系で観客や読者を引っ張る手法をあまり好まない。
答えは「わからない」し、そんな選択を個人ができるわけもないと思うからだ。
そういう選択を突き付けられても、「いや、そうならないために努力しましょうよ」としか言えないが、そう答えると「逃げだ」「無責任だ」とか言われそうな気がする。
でも、人を殺した「責任」なんか、誰がどうやってとるのか。
戦争映画に出てくる「真顔で決断を迫ってくる軍人」という表象にはげんなりさせられるが、今回の映画もそうだった。

話を映画に戻すと、最も興味深いのは、ラスベガスの米軍基地でドローンを操縦する若者二人の描写だった。
コンテナのような狭い空間で、モニターを凝視し、極度の緊張を強いられる若者たちの表情をみていると、現代の戦争においても、兵士は加害者であると同時に被害者なのだなと感じた。

一応の主人公が女性軍人というのも「現代的」なのだろうか。


真摯な問いを投げかける軍事サスペンスで、「ドローンの戦争」というひと昔前ならばSF的でさえあるようなテーマを描き切った力作、と評価したいところだが、そう言いきるには、モヤモヤが残る映画だった。

でも、考えてみれば、こうしたモヤモヤが残るということ自体、最近観た映画では珍しく、それはそれで得難い経験だった。

『マイルス・デイビス 空白の5年間』 76点

ジャズは全然わからないけれど、そのかっこよさに惹かれて、大学の時にいろいろ聴いた。
「わからないのにかっこいい」と思えたのはなぜかというと、当時読んでいた中上健次村上春樹がジャズを褒めていたからだ。
一種の「教養」として「勉強」しようとして、一週間くらいでやめた。
その一週間で聴いたCDのなかに、マイルス・デイビスは当然入っていた。

それだけなら別によくある話で、わざわざこの映画を観に行くことはなかっただろうが、ドン・チードルが監督・主演していると知り、気になったのだった。
ドン・チードルは、大学の時の授業で観た『クラッシュ』や、大学のときのバイト仲間と観た『ホテル・ルワンダ』以来、あの目と鼻と口が気になっていた(52才だとは!)。

というわけで『マイルス・デイビス 空白の五日間』を観た。
「才能ある人間が駄目になっていく」という話が好物なので、面白く観ることができた(正確には「駄目になっていた時期」であり、その後復帰している)。

劇中で、ドン・チードル演じるマイルスが「昔のファンは、昔の俺の演奏が好きだが、俺は変わり続けている」というようなことを言っていた。
それは確かにそうだが、たとえば昔の「乾杯」を聴きたいのに、今のナガブチの「乾杯」を聴かされてしまうとそれはそれでガッカリするのも事実。

ここで、あえて、作り手側になって考えてみる。
どこに行っても「あの曲を(あの時のままで)やって」と言われると辛いだろう。
「それならCDでええやんか」と言いたくなるかもしれない。
そう思うと、ドン・チードルが演じるマイルスの気持ちもわからなくもない。

良かったシーンはいくつもあるが、「現在」と「過去」のマイルスが交錯する場面が印象に残っている。特にボクシングの試合の場面。

撮り方以外にもグッと来たのは、クラウドファンディングで資金を集め、取材と役作りに心血を注いだドンチー(略)の情熱だ。
「僕、マイルス・デイビスが大好きなんです」というのが伝わって来て、ちゃんと「マイルス」が憑依していた。
ローリングストーンズ誌の記者役のユアン・マクレガーも良かった。

ただよくわからなかったのが、70年代後半のマイルスのファッション。
なんか原色のキラキラで、アースウインド&ファイアーの人みたいな感じ(ファッションに詳しくないのでわかりません)

 

もっと知りたいと思った点もある。

マイルスは、自身の音楽を「ソーシャル・ミュージック」と呼んでいたとのことだが、なぜそのような発想に至ったのか、知りたい。

 

原題は『MILES AHEAD』で、邦題よりも、そっちの方がいいだろう。
日本で英語教育が進んだ十年後くらいには、英語圏の映画は英語表記のままで公開される日が来るのかもしれない、などと思った。

話は完全に変わるが、この二年くらい、10代半ば向けの恋愛邦画が多い。
あの流れははやく終わればいいと心から願っている。