ひどすぎる映画 『ひるね姫:知らないワタシの物語』3点


絶対に観ない方がいい。

これまでも面白くない映画を観ることはあったが、それでも「あの点がひどいな」と友人と言い合ったりして、それなりに「楽しんで」きた。
しかし、『ひるね姫』はひどすぎた。
ドクター・ストレンジが今年最低だと思っていたが、レベルが違う、
お金を返してくれとは言わないが、時間を返してくれと言いたい。

むちゃくちゃな脚本
ダサいキャラクターデザイン
緊迫感のない声優
センスのない音楽
エンドロールの歌

すべてひどい。
監督の周囲の人間はどこかの段階で修正してあげるべきだったんじゃないか。

この監督のことは良く知らないから、wikiをみてみたらスタッフと「徹底討論して脚本製作するのが信条」とあった。このwikiの記述が正しいのかどうかわからないけれど、もし正しいならば、やっぱスタッフが含めておかしいんじゃないかな。「なんでそんなことになるの?」の連続だったから。

開始5分で「なんか説明の多い映画だなあ」と思ったが、それが延々と続いた。
説明→間延びしたアクション→説明→サスペンスのないやり取り
という感じで、説明パートとアクションパートが完全に分かれているので、退屈。
「アクションや移動シーンで画面を動かせながら、「説明」をはさむ」ということを、もう少し意識したほうが良いと思う。

イライラしてきたので、以下、五月雨式に吐き出していこう。

夜の高松付近で迎えがくるのを待つ間、主人公たちがサイドカーで寝てしまう場面がある。
二人が目を覚ますとそこは大阪の道頓堀。
なぜかというと、サイドカーには自動運転システムが搭載されていたから・・・
夜寝ている間に高速道路を使って大阪まで来たとのこと・・・
サイドカーって、風を受けるわけだし、二人が一度も起きないなんてありえない。
気が利いているわけでもないし、なんだかよくわからない。
じゃあ、なぜそれが映画のなかでOKになってるかというと、「夢のなかで移動していたから」というのが、この映画の説明の仕方。
それはないだろう。
最後の場面も同様。
川沿いで祖父と話していたはずの主人公は、いつの間にかビルの30階くらいから落ちかけている。「夢で移動していたから」。
「夢オチ」という言葉がそれなりに定着しているのは、それが安易であるってことを皆が知っているからだろう。
だから、普通に理解しがたいことを説明する際に夢を持ち出すっていうのは、リスキーなことだと思う。それを知らないはずはない監督兼脚本の人が、なんでこんなにひどい夢の使い方をするのか。

夢のなかで機械と鬼が闘う場面がなんどか出てくるが、むちゃくちゃツマラナイ。
アニメ的快感ゼロ。メカはダサいし、敵は宮崎駿の想像力を抜け出せていない(宮﨑駿ってスゴインダナー)。なぜか宇宙に飛び、そして戻れなくなる父親・・・
お前らどんだけアホやねん・・・

アホといえば、「渡辺」。

主人公からタブレット(猫のぬいぐるみに入ってる。タブレットのなかには自動制御プログラムが入っている)を奪い、東京に帰るときに、主人公に奪い返されるわけだが、その描写が噴飯もの。主人公は、搭乗手続きをしている「渡辺」に忍び足で近づき、足元においた荷物ごとタブレットを奪還する・・・。いやいや、空港のグランドスタッフはせめて気づくだろう。馬鹿なのか全員。

そもそも、主人公のあの夢のなかで、鬼の存在が何を意味するのかが、全然わからない。漠然とした「脅威」なのかもしれないが・・・この点がもっとも不愉快だった。
夢のなかで何と戦っているのかが全然わからないのだ。
夢と現実が対応しているとか言いながら、夢のなかの敵は、「魔法を持つ女の子の呪い」みたいな説明になっている。しかし、その魔女は実は「主人公のお母さん」という設定で、「もうなんやねんそれ!!!!」となる。
あとからあとから説明を加えるな!

ドラマを作るための悪役として、「渡辺」という髭の男が出てくるが、彼がそんなに悪く見えないのも、いかがなものか(自社製の自動運転システムにこだわる祖父のほうが悪く見える)。

猫のぬいぐるみ、子どもの頃から大事にしてたのはわかるけど、もう少し汚れていないとリアリティがないし、夢のなかではしゃべるのだが「わかりやすいアニメ声」で冷める。

 

まだまだあるけど、もういいや。
とにかく、見ない方がいいと思います。

 

【追記】
プロの評価が気になったので、『キネマ旬報』2017年4月下旬号を確認した。
三人の評者が、五点満点で三点(正確には点ではなく星の数)だった。
北川れい子氏は、「彼女のみる夢が、現実とクロスしていくというのもユニーク」「伏線も丁寧で、スピード感も上々」とのこと。僕は遅いと感じたので、時間の感覚が違うのかも。
・千浦僚氏は、全然褒めてないが、星三つ。
・松崎健夫氏は、この映画にはたくさん橋が出てくると指摘して、それが夢と現実の「架け橋」になっていると述べる。なるほど。しかし、とくに褒めているとも思えない。
 キネマ旬報は、全体的に点が甘いのだろうか。

 

のぶ代と鉄矢が聴こえない:『ドラえもん のび太の南極カチコチ大冒険』46点

のぶ代から水田わさびに声が変わってから、はや10年。
それでも、心のなかでドラえもんを再生するとき、耳のなかに響くのは、のぶ代の声だ。
僕は、のぶ代のことを忘れられないでいる・・・

だからといって、新しいドラえもんに馴染めないかというと、決してそういうわけではない。
特に、二年に一度のリメイク版の映画は楽しみにしてきた。

「いつになれば、武田鉄矢の主題歌が聴けるのか」という点も楽しみの一つだ。
去年の『日本誕生』も楽しく観たが、武田鉄矢は歌ってくれなかった。

(余談だが、1997年の「ねじ巻き都市冒険記」の主題歌は矢沢永吉である。

ドラえもんYAZAWAのコンビネーションを思いついた製作者側も、引き受けた矢沢永吉も偉いと思う)

 

で、今回の『南極カチコチ大冒険』
タイトルに「カチコチ」と入ってあるのが、「あれ?」となった。
知っている文法に直すならば『ドラえもん のび太の南極大冒険』となる。
タイトルに擬態語が入っているのを知って、「あ、これはもしかしたら合わないかも」と不安になったが、不安は当たった。

全く面白くない、というわけではないのだ。
なんだか微妙なのだ。
それがなぜなのか、考えてみた。

最大の理由は、敵に人格がなく、魅力に欠ける点だ。
戦いにドラマが生まれない。
のび太たちが行動を共にする「カーラ」という少女と、「ヒャッコイ博士」にも、やはり魅力に欠ける。
「最後のボスの倒し方」もアイデア不足だし、10万年の時を越えてタイムベルトの電池をやり取りするくだりも、正直いって冗長だった。
敵についてもう少し書き込むことができれば、序盤のツマラナイ部分をカットできたのではないか。
特に、南極でのリング探しは眠かった。

もっとも、考えてみると、昔から、大長編ドラえもんは微妙な点が多かった。
子どものころから、映画館で大長編をみてきたが、日常を描いた通常版に比べると「お話し」に徹する必要があるので、「なんか違う」となっていた。
そもそも、てんとう虫コミックス1巻分の話に「大長編」といわれてもな、と突っ込みたい気持ちは、小学生のころからいままで、変わることはない。

ドラえもんの衣装がかわいかったので、50点。
ヒャッコイ博士」というネーミングにFの遺伝子を感じたので+6点
武田鉄矢が歌わなかったので-10点
で、46点!

 

ちなみに、ドラえもん主題歌のなかで一番好きなのが、これ。

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『ラ・ラ・ランド』74点

開始30分くらいはきつかった。
お互い最初は相手のことを「何だよあいつ!」と思っているけれど、何度か偶然会ううちに「・・・あれ、なんか惹かれてる・・・」となる。
こういうのはもう何度も何度も観た気がして、嫌な予感がしたのだった(嫌な予感は最終的に外れたけど)。
女優志望でウェイトレスをしながらオーディションを受けている女性と、「俺、自分の店を持ちたいねん」と豪語する勘違いミュージシャン。
時代設定も、「あれ、これは60年代?80年代? でもカーステの音楽は今っぽいのもあるな」とか思っていたら、スマホが鳴ってるし「やっぱ現代なのか!?」と混乱。
なんだかうまく映画に入れないなあ、と思っていたが、ゴズリングがバンドメンバーに加入、エマ・ストーンの一人芝居が失敗するあたりから「そうそうこういうのを待っていた」と身を乗り出すことになった。
エマ・ストーンが最後に受けるオーディションで歌う「夢追い人に乾杯を」的な歌詞もぐっときた。
愛を誓ってそれぞれの夢に向かうところから、ラストの妄想シーンまではとても気持ち良くて「苦い」演出だったと思う。

ちなみに、ライアン・ゴズリング
あまり好きになれなかったけれど、どこか間の抜けたような顔が今回はとてもよかった。
「あ、なんかこいつ、大成はしなさそう」という顔だな、と初めて見た時から思っていたが、ラスト、感情をこらえているときの表情がとてもよいと思った。
(というか、こうして他人の容姿をからかったりすることは、基本的にはダメなのだけれど、俳優や芸能人に関してはそれができてしまう。
そう思うと、俳優や芸能人は大変だし、ありがたい存在だ)

空に浮かんだり、何なんだこのミュージカル演出!? 
と思っていたら、往年の名作の再解釈だったとネットで知り、「それも好物!」
ということで評価はうなぎのぼりで74点!
ラブストーリーとミュージカルにまったく関心がないのでほとんど見ないし、それゆえまったく批評眼がないわけだが、これまでみたなかでは最高レベルだった。

不満点としては、結局よくわらないまま無茶苦茶成功してたエマ・ストーンに納得がいかない。
そのへんを描いてくれないと「夢追い人に乾杯を」とか言われても説得力が薄いし、夢崩れてどうしようもない人間のこともちゃんと描いてくれないと嫌だ。
夢を描く映画、夢を売る商売なのはわかるけど、もっとクズをたくさん出してほしい。
ということで、ないものねだりはこのへんで。

王様のためのホログラム 65点

西欧人の主人公(男)が、あるミッションを持って「異文化」に乗り込んでいく。
最初は文化の違いに戸惑い、挫折しそうになるが、バディを見つけ(女性のパートナーも見つけ)次第にその土地に溶け込み始める。文化の差を尊重しつつ、共存する方法を見つけるのだ。
そして、主人公の当初のミッションは失敗するが、その代わりに何らかの深い達成感を得て、物語は終わる・・・

こう書くと、いくらでも同じ類型の物語がありそうだが、『王様のためのホログラム』は、まさにその構図にあてはまる。
行き先は中東サウジアラビア
ということは、オリエンタリズム満載か!? となったが、そのあたりは安心して見れた(もしかしたら気づいていないだけかもしれないが)。
しかし、コメディとしての面白さは期待外れ。
上映前までうるさかった後ろの席の外国人三人組も、ほとんど笑っていなかった。

開始1分のハイテンションが続けば、もっと楽しく観られただろうが、途中はやや眠かった。
原因は、脚本が散漫だったこと。デンマーク人女性の存在は不要だったのではないか。
主人公の父親の中国バッシングも、「なんだかなあ」と思ったり。
全体的には、まとまりの良い小品という印象。

見どころは、トム・ハンクスとお医者さんが海に潜るシーン。
60歳のトム・ハンクス、頑張ってたなあ。

スノーデン 68点

すっかり忘れていたスノーデン事件。
考えてみれば不思議である。
アメリカ国家安全保障局NSA)が、日本の政治エリートや行政機関から、私たち「一般人」にいたるまで、あらゆる人間のネット上での個人情報を、いつでも不法に閲覧する能力を持っており、現に盗聴行為を行っているという告発のことを、僕は「すっかり忘れていた」のである。
面白い気もするし、怖い気もする。

さて以下、感想だが・・・
題材が題材なだけに仕方のないことではあるが、映画的な面白さには欠けると言わざるをえない。
面白いと思ったのは、割とわかりやすい「愛国的人物」だったスノーデンが、恋人との関係・日々の業務を通して、政府に疑問を持ち始めるという筋書きである。

特に上司たちの描き方が面白い。

スノーデンの上司の顔がむちゃくちゃ怖くて、大写しになる場面では笑いかけた。

ハワイへの異動を知らされる狩りの場面では、「ああなんかこういう男性ばかりのレジャーも、結局は仕事(こいつできるかどうかの評価とか、交渉の場)なんだなあ、嫌だなあ・・・」としみじみ思えた。

ハワイでの上司は「キャプテンアメリカ」と揶揄されるくらい、わかりやすく愛国的。

恋人役の女性にちょっとイラっとしたが、あそこを丁寧に書かないと、スノーデンが「国を捨てる」という決断の重みが出ないし、仕方ないのかもしれない。
でも、それならば、スノーデンの家族の話をもっと書き込めばいいのにと思った(スノーデン側からストップがかかったのか)

どうでもいいが、ニコラス・ケイジがちょい役で出てきたので、個人的思い出話を。
僕の母は、ニコラス・ケイジを、「ニコラス刑事」というニックネームだと長らく思い込んでいた。「なんか刑事役やってなかった?」と言っていた。まあ、間違ってはいないのかな。

ドキュメンタリーがあるらしいが、わざわざそれを観ようとは思えなかったので、68点。

ドクター・ストレンジ 7点

僕がこれまで映画館で観てきた作品は、これに較べたらとてもレベルが高いのだなあと思わせてくれた。これまで観てきた映画に心から感謝できる、とてもすてきな作品だった。
迷っている人は観ない方がいいと思う。

開始2分くらいでヤバい雰囲気プンプン。
天才外科医の主人公による手術の場面から始まる。
俺天才だからこれくらい余裕~、という感じで、ipodから流れる音楽に軽くノリながら手術する主人公。
手術室で音楽が鳴り、医者たちに笑顔がこぼれ、なんとなく楽しそう、という時点でイヤだった。その上、手術室で音楽クイズみたいなことも始める始末。
多くの観客は「こいつらみたいに手を抜く医者に手術してほしくないな」と思うんじゃないだろうか。
ここで、
「あ、リアリティーのラインを随分と下げてみなければならないのだな」
と覚悟した。
「これはマンガなんだ。これは少年マンガ。そう思って観よう」
決めて椅子に座り直した。

イラっとする天才外科医は不注意な事故で両手の機能をほとんど失う。
リハビリでなんとか生活できるレベルには戻るも、現代医学ではこれ以上の回復はないとわかり絶望する。そこで、ネパールのカトマンズに渡って、謎の組織による一種の魔術を授けられる。
この謎の組織での修行の場面が、長くてツマラナイ。

主人公は、当たり前だが、最初、魔術的世界の存在を信じない。
そこで、師匠役の丸坊主の女性が、魔術を信じさせるために主人公を精神世界に送る。
その精神世界の造形が、ダサすぎる。
発想が70年代的というか、サイケな感じを出したいのかもしれないが、面白くない。
主人公は修行中にいろいろと本を読むが、本を取るときや頁をめくるときの手の動きをみていると「手術は無理でも、十分生活できるのでは??」
という気持ちになる。
そもそも、かなり早い段階で主人公が事故を起こして手の機能を失うため、彼の医者としての矜持が全く伝わらない(彼の手術シーンは前述のような不愉快なイメージしか残らない)。

まあそれでも、戦闘シーンが面白かったらいいか~、と思っていたが、これもひどい。
この映画の売りである『インセプション』的映像は、撮り方が悪いので壮大な感じがせず、ちまちまCGを使ってるなあ・・・という感じしかしない。
格闘シーンも、ごちゃごちゃして動きが把握しずらいし、ようやく盛り上がり始めたら、なんか急に登場人物たちが議論を始めたり、コメディっぽい間(マ)があったりと、テンポがとても悪い。
ラスボスみたいなやつは、造形がひどいし、結局馬鹿みたいな「交渉」で解決してしまう・・・(ここも相当ひどい。映画館では笑い声が起こったが、それは失笑であろう)。
脇役全員に魅力がないのも悲しい。

悲しくて、帰りたくて、脳内に『悲しい色やね』の「逃げたらあかん 逃げたら」が流れたのだった。

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監督・脚本は同じ人物だが、この人は完成したフィルムを通して観たのだろうか?
観ているはずだが、なぜこれでOKを出せたのだろうか?
製作会議や現場で、誰かが「はいっ!意見があります、この演出は変だと思います!」と言えなかったのだろうか?

言っても無視されたのか。
不思議である。

プロたちがお金と時間をかけて作った作品をけなすのは、失礼だとは思うが、完璧な駄作を観た。
続編をつくる気マンマンっぽいが、やめたほうがいいと思う。

悪口ばかりになってしまったけれど、悪口のほうが楽しいし、結局のところ、いろいろ言いたくなる映画だったわけで、その意味では「7点」というのは低すぎるかなと自問自答した。しかし、自問自答しても、100点満点の7点である。

 

『沈黙』 73点

遠藤周作の原作を読んだとき、迫害を受ける民衆の姿がただただ痛ましく、読むのが辛かった思い出がある。

映画化となれば、当然、拷問の場面を克明に描くことになるのだろう。
そう思って観に行ったら、やはりその通り。

荒波に打たれ続ける、藁を巻いて泳げない状態で海に落とされる、逆さに吊られ続ける・・・。

その時のキリシタンたちのうめき声、叫び声、泣き声が辛い。
BGMがほとんどない映画だったせいもあり、人間の声が耳に残りやすく、それは良いのだが、苦悶の声までもクリアだった。
にもかかわらず神は「沈黙」するのか? という問いを突き付けたいのは嫌というほどわかる。
でも、途中からそれに耐えられず、パードレたちに対して「早く棄教してください」と思うようになり、終盤は「早く棄教しろよ!」と怒りすら覚えた。
観ていても「信仰とは何なのか・・・?」と深刻な顔で考える気にはなれず、あんな恐ろしいことになるくらいなら「信仰の自由」は確保しよう!としか思えない。

 

ウルフ・オブ・ウォールストリート』がとても面白かったスコセッシだが、今回は乗れなかった。映画館を出たら寒いし・・・夏に観たかったかな。なんとなく。

  

ちなみに『キネマ旬報』2月上旬号によると、スコセッシが『沈黙』の映画化を構想し始めたのは1988年。
1991年には、ニューヨークのホテルで遠藤周作に会い、直接映画化をお願いしたとのこと。

キネマ旬報』の記事で、スコセッシが、面白いことを言っていた。
今回の映画では建築物にこだわったが、畳が難しかったというのだ。
畳の上での芝居を撮ろうとしたが、自分の空間感覚が変わってしまい、うまく撮れないのだという。
それがどの程度関係しているのかはわからないが、カメラの位置や俳優の動きは、日本人技術スタッフや俳優に任せる部分も多かったとのこと。

 

最後にスコセッシが70年代の日本映画について語っているところを引用しておく。
「70年代初めの日本映画には、すべての要素があります。みな日本映画のようにやろうとしたのです。日本のヌーヴェル・ヴァーグ、すなわち大島渚今村昌平篠田正浩、彼ら驚くべき才能から、私たちはどんどん学びました。ニューヨークでもロスでも、毎週彼らの新作が封切られていたのです。」
おもしろい。