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労働と生きがい、そしてお金について考えざるを得ない。『家族を想うとき』 99点

 

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舞台はイギリス北東部のニューカッスル
かつては炭鉱の街として知られたが、いまではサッカー好きの人が知っているくらいだろうか。
この映画は、その街に住むある家族の物語だ。

結論から言うと、早くも2020年度ベストの作品に出会った。
そう言いたいくらい、素晴らしい作品。
やや長いが、自分なりにあらすじを書いてみました。

背景にあるのは、2007年に起こったノーザン・ロックというニューカッスルの銀行の経営危機だ。アメリカのサブプライムローン問題によって、ノーザン・ロック銀行は経営危機に陥った。
これにより、住宅ローンが流れ、主人公のリッキーとその家族は住宅を失い、さらにリッキーは仕事を失った。
苦境に陥ったリッキーは、稼げる仕事を探す。
そして、フランチャイズ契約の宅配ドライバーとして独立する。
うるさい上司に命令されることもなく、自分の腕次第では高い報酬も得ることができる「良い仕事」に思えた(ちなみに、インターネットを通じて単発の仕事を受注する働き方や、それによって成り立つ経済形態のことをギグエコノミーと呼ぶらしい。UBERみたいなものか)。

やや話が逸れるが、労働者からみれば、ギグエコノミーはキツいことが多い。

まず、ほとんど歩合制。これは、やる気と時間がある人には良いのかもしれないが、怪我や病気になったときの補償はない。

雇用者は、労働者を独立した自営業者として契約するので、車代・ガソリン代は労働者の自己負担。社会保障費も当然自己負担となる。雇用者にとってはたいへん「お得」、労働者にとっては、弱肉強食の職場と言える。

 

さて、ぺこぱのように時を戻そう。

リッキーは職場で次のような説明を受ける。
本部の車を借りて宅配業務をすれば、毎日本部にレンタル料を取られる。したがって、宅配用の車を買った方が合理的だ。ローンでも良いから買うべきだと言われる。
しかし、リッキーには頭金の1000ポンドがない。
結局、妻のアビーの車を売ることで、なんとか自分の車を手に入れるが、妻のアビーは困惑する。
なぜなら、アビーの仕事には車が必要だからだ。
アビーの仕事はパートタイムの介護福祉士。老人や障害者を戸別訪問して、食事から排泄まで、身の回りの世話をする仕事だ。
戸別訪問には、車が必要なのだが、リッキーの車のために仕方なく、自分の車を手放す。移動はバスに頼ることになる。
でも、アビーが契約している介護福祉士のエージェントは、移動時間を「休憩時間」としてカウントする。移動中は給料がでないのだ。
つまり、アビーが車を手放すことは、同じ給料に対する拘束時間が延びることを意味していた。

こうして、リッキーとアビーは仕事に追われる日々を送る。
リッキーは一日14時間の労働を週に6日。
アビーは、バス停から子どもたちに電話をして、なんとか家族のコミュニケーションをとろうとする。家族の時間が削られていく。
リビングのソファで疲れ切って寝てしまった二人を、娘が世話してやる場面があったが、その場面がこの家族の状況を端的に示していた。

働きまくるリッキーだったが、息子のセブがケンカをして、学校から呼び出される。
しかし、リッキーは仕事を離れることができない。仕事を離れると罰金100ポンドを支払わなければならないからだ。
結局、妻のアビーだけが学校に行って停学処分の説明を受ける。
帰宅したリッキーは、学校の説明に納得がいかず、アビーを問いただすが、アビーからしてみれば「私に言われても困る。それなら学校に来てくれれば良かったのに」となる。

さらに不幸は続いて、リッキーは配達中に暴漢に襲われて積み荷を奪われ、高価なGPS機能付きの集荷スキャンを壊される。リッキー自身も怪我をして病院で検査を受けていると、本部から携帯電話に電話がかかってくる。
「代わりのドライバーを探さないと制裁金100ポンド。積み荷のなかにあったパスポート2冊の補償金が、1冊あたり500ポンド」
その電話に今度はアビーが激怒する。。。。
翌朝、それでも仕事に行こうとするリッキーを、家族は制止する。片眼が腫れている状態で、レントゲンの結果も出ていない。仕事どころではないからだ。
しかし、リッキーは家族を振り切って、車を走らせる。狂気じみたリッキーの横顔を映して、映画は終わる。

家族を楽にするための仕事が、家族のつながりを不安定にし、ひいては自分自身の人間性をむしばんでいくさまが、緻密に描かれていた。
わたしは、ダニエル・ブレイク』の姉妹編とも言うべき傑作である。

忘れがたいのは、次の二つの場面。
過酷な宅配の仕事が、楽しそうに描かれる場面がある。リッキーが車の助手席に娘を乗せて働く一日を映した場面だ。
仕事の内容を娘に説明しながら運転したり、荷物を手渡す時に客から娘がチップをもらったり、娘が不在票の記入を手伝ったり・・・
辛い仕事が、楽しそうに描かれていて、観客はホッとする。
しかし、後日、本部に行くと呼び止められる(以下会話を記憶で再現)。
「助手席に誰か乗せていたか?」
「俺の車だろ?(独立しているという契約じゃないか、娘を乗せてなにがわるい)」
「客からのクレームだよ」
ということで、楽しい仕事の記憶も、客と雇用主によって、後味の悪いものになっていまう。これが一つ目。

もう一つは、アビーが介護先で出会う年配の女性が、思い出話をする場面。
組合によるストライキで労働者が集まったときのこと。労働者たちのために臨時のcafeを開いたら、500人もやってきたと、懐かしそうに、どこか誇らしげに語る姿が良かった。

ぼくはamazonのヘビーユーザーだが、こうした働き方を人に押しつけることで得られる「快適さ」とは何なのか。こうした経済がいつまでも続くのか。疑問に思った。
疑問に思うと同時に、続くだろう、という予感も持った。
ネガティブな予測をしてしまう原因の一つに(あくまで一つ)、ギグエコノミーと労働組合は相性が悪いように思えてしまう、ということがある。
ギグエコノミーに集う労働者の働き方や生き方のモデルと、労働組合てのは、そもそも相容れない部分が多いのではないか。

ギグエコノミーに集う労働者は、「労働組合とか無駄」と切り捨てそうで、なんか「自己責任論」を悪い意味で内面化しているような自称「意識高い系」なんじゃないかと邪推する(邪推であってほしいです)。

あるいは、労働者同士がつながろうにも、そもそもそんな時間や労力がない、というのも考えられる。もちろん、そんな環境でも、人間同士のポジティブなつながりは必ず生まれるはずだけれど。

じゃあ、どうしたらよいのか。
地道な活動をしている人びとには敬意しかないが、それと同時に人びとの価値観を変えるための手がかりを求めたくなる。
労働者を搾取し尽くそうという雇用者側が「ダサい」「終わってる」と思えるような価値観。
ケン・ローチは、映画の中で一言もそんなことを言っていないけれど、観客の一人としては上記のようなことをウダウダと考えた。

 

あと、邦題をつける人、ほんとセンスないな・・・

原題のニュアンスを完全に消している・・・

もう一つ、パンフレットに「グラフィティ」が「落書き」と書いてあった。ケンローチは「落書き」とは呼ばないんじゃないかな。