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詩の「たとえば」について:鮎川信夫から米米CLUBまで

米米CLUBの代表曲の一つに「君がいるだけで」(1992)という曲がある。
ご存知のように、この曲は以下のように始まる。

たとえば
君がいるだけで
心が強くなれること

イマイチ意味がわからない歌詞だが、石井氏の声も良いため、とても耳に残る。さらに「たとえば」で始まる歌いだしに意表を突かれて、忘れられない歌詞になっている。
もう一つ例を出すなら、1994年に放映されたテレビドラマのタイトル、「人間・失格:たとえばぼくが死んだら」。
キンキキッズが出ていた記憶も色濃いが、それよりも副題の「たとえば」が耳と目に残っていた。
散文ではない、歌詞やタイトルにおける「たとえば」が、なんとなく気になっていたのだろう。探す気はないけれど、歌詞やタイトルで「たとえば」に出会えば立ち止まるくせがついた。
そういえば、いま芋づる式に思い出したが、映画『NANA』の主題歌の一つ「ENDLESS STORY」では「たとえば 誰かのためじゃなくあなたのために 歌いたいこの歌を」とあった。
「たとえば」と言いながら、実はそのあとに本心を隠している。本心といっても、J-POP的な常套句が多いけれど、それでも歌詞のなかでは一応の「本心」として機能しているように思う。で、そのギャップに、読み手・聴き手はハッとするのだろう(ちなみに、「グッとくる」の「グッ」はgoodなんだろうか? 田原俊彦氏の意見をきいてみたい)。

そこで鮎川信夫である。

まずは引用。

たとえば霧や
あらゆる階段の跫音のなかから、
遺言執行人が、ぼんやりと姿を現す。
——これがすべての始まりである。

「死んだ男」という作品の冒頭の四行だ
何年に作られたのかよくわからないが、ネットでは1947年に発表されたそうだ。
戦争からかえってきたが、親しい友人のMは戦死しており、もういない。そこから再出発しなければならない「ぼく」が、死んだMに語り掛ける。そういう詩だ。
この詩に、米米キンキキッズよりも長時間立ち止まった理由は、「たとえば」のあとが曖昧だからだった。
「たとえば」のあとに続くのは、「霧」or「あらゆる階段の跫音」である。
詩情のない人間は「二つ挙げろ」と言われたら、たいてい同じ「引き出し」から出してしまう。
試しにやってみると、パッと浮かんだのは「リンゴ」と「みかん」だった。同じ「果物」の「引き出し」に入っていたから出てきたのだろう。
奇をてらって、あるいは、考えに考えて、違う「引き出し」からそれぞれ違う単語を出すことに成功したとしても、二つ目を「跫音」で止めてしまうのではないか。そこで鮎川は「あらゆる階段の跫音」と来る。
「たとえば」の割には妙に具体的な気がするけれど、考えてみれば「階段の跫音」なのだから、特に具体的なわけではないと気付く。そのあたりで、「あ、この詩はちゃんと読まねばならない!」と座りなおすことになるのだった。

「たとえば」で詩を始めた最初の人は、いったいだれなのか、とても気になる。ひとつ再確認できたのは、現代詩のテクニックをうまく薄めた例が、マスメディアの言葉には多いということ。

で、そもそも何が言いたかったのかは、忘れた。