エア連載 「俺の折々の音」~その1
七年くらい続けてきた新聞購読を辞めようかと考えているが、「折々のことば」は好きだ。もちろん「折々のうた」も好きだった。
心のなかの最もミーハーな部分が、「おいどんも『折々』したいでゴワス」とうるさいので、素直にしたがうことにした。
いいじゃないか別に、だれに迷惑をかけるわけでもないし!!!
と、まずは軽く逆ギレしたところで、内容よりもタイトルの悩みに直面した。
「折々の○○」というタイトルにして、鷲田先生のは病気か脱税的不祥事か何かが原因でもう終わったということにしてしまおう。だから続編が僕に回ってきた、という設定が良いだろう。
ここまでは、わりとすぐに決まった。
では「折々」の「何」にすればよいのか?
「折々」の「何」なのか??
短い脳内会議の結果、「端的な言葉で文化に関わること」のなかから、消去法で「音」が残った。
アルファベットの「О(オー)」を連打する感じが気持ちよく、一人でご満悦の賢者モード。音楽はたいして詳しくないが、「О」の連打の快感の前では、それは些細なこと。
こういうものは、「見る前に飛べ」、「石の上にも三年」、そして「中身より外見」なのだ!
いや、待てよ・・・「折々の音」だけでは、なんだかマジっぽさがあって、居心地が悪くないか。
脳内を「ダダ漏れ」させることで精神衛生を保つことを意図して始めたわけだから、居心地の良さは譲れない。
居心地の良さのためには、ある程度のバカっぽさが必要だ。「勝手にやってます、テヘッ」という雰囲気も欲しい。
そう考えて、「俺の」か「俺も」を頭につけることにした。
かくして
「俺の折々の音」
か
「俺も折々の音」
の二択が残ることになる。
いわば、いきなり決勝戦である。
これは甲乙つけがたい。
「俺の」は、礼儀正しく、静かな優等生タイプだ。ほんとうは「僕の」と言いたいけれど、少しバンカラを気取って「俺」を使っているような、端正な若さがあるように思う。俺も昔はそういう時代があったよ・・・という共感を得られるかもしれないが、できればもう少しふざけたい。
他方、「俺も」はどうか。
「俺も折々の音」には、「どうせ二番煎じですよ、ええそうですよ」というモノマネタレント的なところがある。
「俺も」には、セロハンテープを貼って研ナオコのモノマネをしていた清水アキラに感じる哀しさが漂っているのだ。
ここで清水アキラ論、いや「モノマネ四天王」なる、日本史上最も存在意義のない「四天王」を論じたいところだが、それは次回以降に回そう。
司会の清水アキラとブックオフの関係や、ヘッドホンをちゃんと付けずに「手で持って片耳にあてて」聴いていた野口五郎についても触れたいが、それをやればナンシー関っぽくなるだけなので、泣く泣く今回は割愛(たぶん一生書かないけど)。
話を戻そう。
「俺の」か「俺も」か・・・それが問題なんだ。
歩きながら、電車のなかで、そして仕事をしながら、考えに考えた。
そして、僕は、ひとりで、たったひとりで、「俺の」を選んだんだ……。
さて、「俺の折々の音」は、当然ながら音楽を取り扱うが、実際は歌詞に触れることが多くなるだろう。
だから正確には「俺の折々のことば」なのだが、それじゃあほら、鷲田先生の丸パクリじゃないですか。
以上のような経緯で、タイトルだけは決めたが、いろいろ忙しいし、きっと何も書かないと思う。
でも、気分転換に書くかもしれない。
第一回は、やっぱり宇多田ヒカルか甲本ヒロトか、中島みゆき、がいいよね?
あ、でもやっぱ「俺も」のほうがいいかな。ま、どうでもいいか、どうせエア連載だし!
こうして、また誰も読まない文字データが、ネット上に増えた。