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制度はどこまで人を管理するのか 『わたしは、ダニエル・ブレイク』87点

大工の仕事を長年続けてきたダニエルは、心臓発作を起こし、医者から仕事を止められている。

ある日、ダニエルは雇用支援手当の継続のため、電話で審査を受けるが、結果は「就労可能、手当打ち切り」。
今度は、「職業安定所」に求職者手当の申請に行く。
しかし、求職者手当を受けるには、求職活動を続けなければならないが、そもそもダニエルは医者から働くことを止められているのだ。

制度(あるいは制度ではなく職員の対応の問題なのか?)の矛盾に直面する様子を克明に描くこの映画。
ダニエルと周囲の人びととの交流がいい。

たとえばケイティという、あるシングルマザー。
子どもは二人。姉と弟で、二人は父親が違う。
ロンドンでは、三人でホームレス用待避所に暮らしていたが、ストレスが溜まったのか(あるいは「自閉症」なのか)待避所では暮らすのは子どもによくないと判断した母親は、国からのニューカッスルの古い民家をあてがわれる(なぜロンドンからニューカッスルまで移動させられるのか、そのあたりはイギリスの制度がよくわからない)。
彼女は、職業安定所の面接の時間に遅れてしまい、それが理由で手当の申請手続きを進めることができない。
本当に困っているのに、一律で機械的のシステムが、遅刻した彼女を拒絶する。
見るに見かねたダニエルは、順番待ちの人びとの前で「彼女を先に相談ブースに行かせてやろう」と語りかけ、人びとも頷くのだが、係員たちはそれを受け付けない。「例外は認められない」のだ。
ここから、ダニエルと家族の交流が始まる。

制度が救えない人びとの存在に焦点を当てた作品だ。
映画は「このままでは駄目だ。社会保障制度の改革が必要だ」という明確なメッセージを発している。
同時に、個人が一人でできる異議申し立てにも限界があるということも、辛いほどに克明に描いている。
それでも、ダニエルとシングルマザーと、その子どもたち(さらに映画が切り取ることができない様々な「弱者」たち)が、ただちに不幸だということにはならない。

深夜にダニエルが行う木工細工。
それを受け取った子どもの表情。
ダニエルがシングルマザーに教えるローソクを使った簡易な暖房器具。
ダニエルを心配して訪ねてくる子ども。
隣室に住む「チャイナ」というあだ名の黒人青年との交流。
そうした日常の細部に生き甲斐が宿っていることを、丁寧に描いている。

先進国とよばれることもある各国は、この30年ほど、福祉を切り詰めてきた。
日本でも数年前に芸能人の家族の生活保護の不正受給が話題になり、芸能人が謝罪会見を行うということがあった。
また、生活保護受給者への偏見も根強い。社会的弱者に対して「本人の努力が足りない」「自業自得」といった一種の自己責任論が、ある程度社会に浸透してしまったからだろう。
このような社会で、制度改革を求める声を上げるのには勇気がいることだ。
自己責任論者に認識を改めてもらうことも難しい(本人が「弱者」になる可能性は、だれもがあるのに)。
そうした困難がある上で、それでもなお、この映画は、観る者に「行動せよ」と呼びかけている。
かつて「行動」という言葉が、輝いていた時代があった。「管理社会」が危惧された時代があった。

でも、いまやそんなことを言えば白い目で見られかねない。
なぜこんなことになってしまったのか、考えたい。