ゴジラはやっぱり夜がいい ~『シン・ゴジラ』(2016)感想~

ゴジラ』のような有名シリーズの映画化は、どこかスポーツに似ている、気がする。

決まったルールに従って、いかに現代的な物語りを紡ぐか、如何に面白い演出をするか、というのを競っているようなところがあるからだ。

当然ながら、庵野秀明以下の製作者たちは、ほとんどすべての観客よりも時間と労力をかけてゴジラについて考え続けたはずだ。だから、私はお金を払って「あー面白かった」と言っておけばそれで良いような気もするのだが、せっかくブログをはじめたのだし、忘れないうちに感想を書き連ねておくことにする。

初代『ゴジラ』(1954)が「戦争の記憶」や「核実験の恐怖」を色濃く反映していたのに対し、『シン・ゴジラ』は「『3.11』後のゴジラ」という要素が前面に出ていた。
放射線による汚染、防護服を着た公務員、一般市民の待避、避難所の様子首相、官邸周辺に押し寄せるデモ・・・こうした映像を観て、多くの観客は五年前を思い出しただろう。
いま『ゴジラ』を撮るなら、共有された災害の記憶をうまく刺激するのは当たり前で、そこに「戦争の記憶」はほとんどなかった(後述するように被爆関連のものは少し出てくるが)。

初代ゴジラから受け継いだ核との関りは、今作も随所で強調されている。
もっともわかりやすい繋がりとしては、ゴジラの「出生の秘密」だろう。今作のゴジラは、各国が無秩序に海洋に廃棄した放射性物質を食べた太古の生物が、独自の進化を遂げたという設定になっている。
それよりも興味をひかれたのは、ゴジラに対する核攻撃の決定だ。
国連安保理が核攻撃を決議し、アメリカの核兵器ゴジラに対して使用されようとする。日本の政治家たちは、東京兵の核兵器の投下を拒むことが出来ず、日本がアメリカの「属国」だと再認識するが、主人公は核攻撃の前に別の手段でゴジラを倒そうとする・・・
この過程で、石原さとみ演じる人物の祖母が被爆者だという事実が明らかになる。
さらに、被曝建造物のモノクロ写真が挿入されるという演出もあった。広島の原爆ドームと、長崎の片足鳥居の写真が、それぞれ1~2秒ほど、挿入されていた。この点、誰かが口頭で被爆の惨禍を説明するのではなく、写真の挿入で済ませたというのは、納得がいった。なぜか。

原爆が落ちた後の広島・長崎の状況は、どれだけ熱意をもって演じたり語り直したりしても、じゅうぶんに捉えることはできない(そもそも、過去を再現するのは不可能だ)。たとえ作り手の意図がどれだけ真摯なものであったとしても、興行の側面をもつ劇映画が、被爆を再現することは、悲劇自体を「売り物」してしまいかねないという危険性を常にはらむ。それならば、映画のなかでドキュメント映像や写真を紹介し、観客に1945年8月6日と9日を想像させるという手法のほうが、私としては納得できる(吉田喜重の映画『鏡の女たち』を思い出されよ)。

話は変わるが、夜、というのはパニック映画の見せ場だと思う。
初代ゴジラが不気味にみえたのは、ゴジラが夜に東京を襲う点にあった(その意味では、数年前のハリウッド版ゴジラも、夜の良さが出ていた)。
ひるがえって、『シン・ゴジラ』では夜のシーンが少ないのがやや残念。
「いつ夜になるのかな」と思っていると、東京が火の海になる場面は、ちゃんと夜で、そこはガッツリ堪能した。
思えば、日本の大都市が壊滅する場面を映画で観るのは、本当に久しぶりだった。破壊とか廃墟というのは、(なぜだかわからないが)いつまでたっても観る者を魅了するコンテンツだろう。一夜明けた東京の廃墟の様子は、『戦場のピアニスト』を思わせる奥行で、迫力があった。
しかし、どうも全編を通して、「民間人が多数、死んでいる」というリアリティは感じられず、切迫感が薄くなっていた。だからと言って死体を描けば良いというわけでもない。いずれにせよ、私に特に対案はないので、これは「ないものねだり」。

電気屋の売り場に並ぶテレビが、どのモニターもゴジラ襲来を伝えているなかで、一局だけアニメの再放送(「みつばちハッチ」?)をしている。テレビ東京へのリスペクトだろうか。

一番印象に残ったのは、ゴジラ再上陸時に「なんでまたこっちに来るんだ!?」と閣僚が叫ぶシーンと、ゴジラの長い尻尾。
物足りなかったのは、ゴジラの最期。
あと、エヴァンゲリオンの音楽が使われているのは驚いた。

 

以上!