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映画メインで諸々の感想を

三〇~四〇代の人間は、絶対に観た方がいい 『ヤング≒アダルト』(2011) 94点

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アマゾンプライムにて視聴。
ものすごくいい映画だと思った。

脚本のディアブロ・コーディ(この人はチェックすべし)の作品は同じくアマゾンプライムで『ワン・ミシシッピ』を観たが、今回の『ヤング≒アダルト』と相通ずるものがある。
似ているのは、
①特に大きな事件は起こらないこと
②他人には絶対に分からないし、口に出せないような過去の痛みを抱えていること
③それを完全に共有することはできないけれど、でも話しを聞いてくれる人がいること(そしてその相手自身も問題を抱えている)
④主人公が発信する人(『ヤング≒アダルト』はゴーストライター、『ワン・ミシシッピ』はラジオDJ
点だろうか。

主人公のシャリーズ世論、じゃなかったシャリーズセロンがとにかく良い演技を見せている。
彼女が演じるのは、郊外のどこにでもある町で育って、そこで美貌と才能を誰からも認められ、都会で成功した女性だ。人気のヤングアダルト小説のシリーズものを手がけるゴーストライターとしてそれなりに成功している(本の表紙には彼女の名前は刷られないが)。
しかし、幸福感は得られていない。
そこに、元カレから、「子どもが生まれました~!」というメールが届く(このメールを印刷するくだりの描写はすごいと思った)。
そのメールをきっかけに、過去の「自分が輝いていた時代」を取り戻すべく、故郷に戻る。彼女は、元カレを「幸せな家庭=つまらない日常」から救いつつ、自分もまた過去の幸せを取り戻そうとするのだ。つまり、元カレを誘惑するのである。
このあたりから、彼女のイタさが辛くなり始める。
郊外の町では明らかに浮くような髪型・ファッションで、観ていて辛い。

そんな彼女の話し相手になるのは、バーで再会した高校の同級生の男だ。
マドンナだった彼女は、その同級生の男のことを完全に忘れていたが、男が「ロッカーが隣だったんだ」と言って、思い出させる。
男は、いじめられっ子で、ゲイだと言われてリンチにあい、下半身を中心に暴行を受け、杖なしでは歩けず、性器にも欠陥を抱えている。地元のダイナーで働きながら、妹と住んでいて、趣味はフィギアの製作・・・
シャリーズ世論(どうしてもこう変換される・・・)からすれば「負け犬」なのかもしれないが、彼がいることで映画は救われる。

さて、彼女は自分の野望を成就すべく、元カレの赤ちゃんの命名パーティに出席する。そこで元カレを誘惑するが、もちろん拒否されて、酒をあおる。元カレの奥さんにからみ、ぶつかってオメカシした服をワインで汚してしまう。そこで彼女は、酒の力もあって、自分の気持ちを爆発させる。
自分にだってこのような「絵に描いた平凡な幸福」を手に入れるチャンスはあったのだ。二〇歳のころに妊娠していたから。でも、三ヶ月で流産してしまい、子どもを産めなくなってしまったんだ・・・と。

ことここにいたって、痛々しいシャリーズセロンを含め、「誰も悪くないやん、それなのにどうして・・・」という気持ちにさせられる。
その後、シャリーズセロンは、同級生の男の家に行って一夜を過ごすことになるが、その描写も素晴らしいと思った。傷ましいけれど、ほんの少しだけだけれど、しかし確実に人を癒やすセックス。それを正視する脚本家と監督と俳優に、拍手したいと思った。

さて翌朝、ベッドで目覚めたシャリーズセロンは、隣で寝ている男の腕が自分の胸の上に乗っていることに気づく。そして、やや物憂げに男の腕を移動させて、自分はベッドから出る。
この場面は、都会から故郷にいったん戻ることを決めた朝と、よく似た構図で撮られている。
だから、この場面を見たとき、「あ、元のシャリーズセロンに戻ったのかな?」と少し不安になる。

このときに感じた少し不安な気持ちは、このあとも続く。

目覚めたシャリーズセロンは、同級生の男の家のキッチンで、男の妹と話す。
妹は「こんな町最低、あなたはみんなの憧れ」とシャリーズセロンを褒める。
シャリーズセロンは感極まって泣くけれども、「私を連れて行って」と頼まれると、「あなたはここにいるべき」と拒絶する。

元のイヤな(あくまで表面的にはイヤな)女性に戻っているような気もする。ああ、やっぱり元に戻るのか、しかしそれも仕方ない、彼女が選ぶことだから。

そう思っている間も映画は進む。シャリーズセロンは短い滞在を切り上げて、都会のタワーマンションに戻ることにしたようだ。

故郷から都会に戻る途中のダイナーで、シャリーズセロンは書きあぐねていた小説執筆に戻る。映画を観る感じでは、筆は進んでいるようだ。

最後の場面で気がついた。

僕が好きなのは、シャリーズセロンが書くことで(『ワン・ミシシッピ』はリスナーに語りかけることで)自分と向き合い、世界と向き合おうとしている姿勢なのだと。

シャリーズセロンが、社会一般の価値観で測ることのできる「成長」をしているのかどうか、そんなことはたいしたことではない。

シャリーズセロンが演じた女性は、映画が終わってからも、可能な限り自分が思うように生きようと足掻くことだろう。でも、それでいい。というか、それしかない。

自意識を持て余して、世界と衝突し、しかし過去の自分と現在の世界と向き合うことは止めない、そうした姿に惹かれた。

僕も「ザ・ドリームズ」のメンバーになって、ジェニファー・ハドソンの後ろで踊りたい。『ドリームガールズ』(2006年) 86点

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良い映画を観ると、3~4時間くらいは、「もっとよく生きよう!」という思いがムクムク湧いてくる。

で、気づけばまたゾンビのような日常で、そこから抜け出すためのカンフル財として映画を観る(ゾンビ状態なので小説を読む集中力をキープできない)。そういうサイクルのなかでこの映画を観た。

アマゾンプライムにて視聴。
観たことないけどテーマ音楽は渡辺直美氏のネタで知ってる・・・という映画。
体内時計が変で、しかし仕事する気にもなれず、ぼーっと見始めたが、次第に引き込まれた。
この映画の監督・脚本は、『シカゴ』や『グレイテストショーマン』の脚本を勤めている人のようで、なるほど、ミュージカルのなかで人間関係の変化やストーリーを進展を描く手腕は、相当に高いレベルにある。

実話にもとづいた創作で、サクセスストーリーと挫折が描かれているというのが好きなので、楽しめた。


言わずと知れたSupreamsに基づく物語で、1967年のデトロイト暴動などを背景にしながら、彼女たち3人と周囲の人びとの姿を描く。
「エフィ」という女性を演じたジェニファー・ハドソンが、とにかく良かった。
容姿では、ビヨンセ演じる「ディーナ」に劣るが、圧倒的歌唱力という設定。彼女は三人組のリード・シンガーを務めていたが、レコードデビューに際して、プロデューサーの意向により、見た目の良い「ディーナ」がリードとなる。「エフィ」とプロデューサーは恋仲だったため、嫉妬もあり、イライラが募っていく。レコーディングで自暴自棄になり、リハーサルをすっぽかすのだ。この頃、「エフィ」はすでにプロデューサーの子どもを身ごもっていたが、それは誰にも口に出さない。
そしてとうとう、メンバーたち全員から「エフィ、もういい加減にしろ、もう一緒にやれない」と引導を渡されてしまう。プロデューサーはすでに代わりのメンバーを用意している。
「エフィ」に感情移入して観ていたので、メンバーたちがクズに見えて辛かった。

「エフィ」全然悪くないやん。

そう思わせる絶妙な演出だった。

で、「エフィ」はその後、子を産み、アルコール中毒になりもするが、シングルマザーとして力強く歩み始める。そして「私には歌しかない」と場末のクラブで再び歌い始めるのだ。プロデューサーからの送金はあるが、受け取ろうともしない。
その「エフィ」が最後、「ディーナ」たち三人組の引退コンサートに呼ばれ、一緒に歌う場面がクライマックス。
どうかんがえてもこれは「エフィ」の物語だろう。ビヨンセのパートは正直どうでもよくて、早く「エフィ」出てこないかなと思って見ていた。
にもかかわらず、ビヨンセに焦点が絞られているあたりに、ショービジネスっぽさが出ており、それはそれで面白い。ビヨンセがいるから、「エフィ」も光ったのだろう。演技なのか素の才能なのかは分からないがビヨンセの空っぽな感じも、うまく機能していた。

ジェニファー・ハドソンは、アカデミー賞助演女優賞も頷ける熱演。というか、主演女優賞をあげろよ! 誰が主演かも含めて、評価しろよアカデミー会員たちよ。映画会社が「この人が主演」といえば、それに従うのか?


ちなみに、Wikipediaによれば、「エフィ」を演じたジェニファー・ハドソンは、その後家族を殺人事件で亡くすという不幸にみまわれたとのこと、、、。辛いです。その後あまり映画で観ないけれど、活躍を期待している。
ドリームガールズのテーマが二回流れるが、ノリノリのバージョンは1回だけというのも、良かった。また観たくなる。

あと、エディ・マーフィーが、何かを諦めた顔でヘロインに手を出す場面があるが、いい演技だった。エディ・マーフィー、死んだ眼がうまい。

映画館で観たかった。

中途半端な映画だと思う『ボヘミアン・ラプソティ』67点

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クイーンを初めて聴いたのはいつなのか、覚えていないけれど、多分CMかなにかだろうと思う。
覚えているのは、中学か高校の時に、地元のレンタルCD屋さん(TSUTAYAではない)でアルバムを借りて、MDに焼いたこと。若いときは、一通り洋楽のレジェンドを聴いてみたくなるもので、そのうちの一枚がクイーンのベストアルバムだった。
メンバー個人のことは何も知らないが、ボーカルのビジュアルと声はインパクト抜群・・・というのが僕のイメージするクイーン像。

僕の場合は、「Another One Bites the Dust」という曲が好きで、流れたらテンションがあがったわけだが、みんなこんな感じで、好きな曲が来たときに盛り上がったんだろう。
Wikiによると、ベースラインはシックの『グッド・タイムス』に影響を受けて作曲されたとのことで、「なるほど」となる。また、1980年の曲だということで、それにも驚く。

 

さて、肝心の映画だが、心打たれた点から。
メアリーと別居してすぐ、電話で乾杯しようと呼びかける場面は、フレディの孤独が出ていて、とても良かった。
また、フレディの家族の描写もいいなと思った。

ただ、この種の実在のアーティストの映画は、脚本上の制約が強すぎるのか、不満が残るのも事実。

ストレイトアウタコンプトンやマイルスデイビスなどを観たときにも感じたが、どうにも人物の掘り下げが甘いように思う。


男性同士のキスシーンが二回出て来るが、二回とも唐突すぎる。

最初のフレディとメアリーの恋愛にしても、唐突すぎて現実味が薄い。
幼少期をもう少し描いていたら、共感できたかもしれないが・・・ただ、メアリー役の人は、独特の雰囲気で素晴らしい。
ボヘミアンラプソティのシングルカットに反対していた胡散臭いEMIの男の場面をバッサリ切って、最後のライブエイドの場面ももう少し縮めてはどうかと思った。

正直、やや長く感じた。

大観衆をCGで撮っていたが、寄るとそんなに盛り上がっているように見えないし、「ひしめき合ってる」感じもなかった。

 

あと、僕は主演の人の演技が大仰で、むしろ下手では?

文化的・性的アイデンティティの問題は現代社会の課題と言われて久しいが、その流れに棹さすというところが高評価の背景にあるかもしれない。あとは音楽のパワー。

高く評価されているようだが、まあ、こういう意見もあるということで。

 

去年のベストは『スリービルボード』です。

色々映画を観たけれど、書くのがおっくうで書いていない。
特筆すべきことは、『クワイエット・プレイス』が良かったので、Amazon Primeで『All you need is kill』を見直したくらいかな。
どっちも女優さんが良かったです。

さて、ポピュリズムが何なのか、正直よくわからない。
「人気投票」と理解するなら、そもそも選挙における投票行為はポピュリズムと呼べるだろう。
でも、現今の社会で使われるポピュリズムという言葉は、そうではない。
むしろ、従来の選挙は自分たちの声を代弁していない、という意識を持つ人びとが、選挙を含むがむしろそれ以外の場所で、「自分たちが正しい」と言い始めていることを指して、ポピュリズムと呼んでいるような気がする。
そうだとすると、別に悪いことではないだろう。「そういうもの」なのではないですか。

ただし、「自分たちが正しい」から、「あいつらは間違っている」への距離は極めて近い。
現状で見聞きする「あいつらは間違っている」ばかりだ。
かといって、それを「ポピュリズム」と呼んでしまうと、そもそもこの言葉にはネガティブな意味が与えられているので、「最初から結論が出ている」たぐいの議論になりかねない。

ポピュリズムという言葉で現状を把握するのは、得策ではない気がする。一時期に比べると、ポピュリズムという言葉は、さほど見聞きしなくなったから、それ自体は良いことだと思っている。

むしろ問題は、良いポピュリズムと悪いポピュリズムを区別する基準を、皆で造ることをせずに、なし崩し的にポピュリズムという問題系が忘れられてしまうことだろう。すでに「古い」言葉なのかな、僕はそうは思わないけど。

「自分たちが正しい」から「あいつらは間違っている」に飛び越える際、それは非常に低いハードルだから、意識されていない。僕も意識しないことが多い。「なんか腹立つ」という感情で、やすやすと低いハードルを越えていく。では、その低いハードルは何なのか。偉い人、だれか教えてくれ。

 

ラクラウの『ポピュリズムと理性』という本があるようなので、まずはそれから読んでみようか。

平成の終わりと村下孝蔵

天皇が変わって10連休との報道をみた。

現・皇太子が天皇になるタイミングで、是非とも村下孝蔵『初恋』を歌って、それをTVで放映してほしいと思う。

顔が似ているし、ぜひ全力でモノマネ弾き語りをしてほしい。僕にはよくわからない儀式よりも、村下孝蔵コスプレで歌った方が良いのでは?

ちなみに、村下孝蔵。この曲しか知らないけれど、「風に舞った花びらが水面を揺らすように 愛という字書いてみてはふるえてたあの頃」というバースが、僕はとても好きだ。これは筋金入りのリリシストにしか書けない。

かりに思いついても恥ずかしくて、とても歌えないと思う。プロはすごいなあとただただ敬服する。

「浅い夢だから 胸を離れない」

の逆説も、グッとくる。

www.youtube.com

 追記:全く知らなかったが、非常に若くで亡くなっておられるのだった・・・最近見ないはずである。残念だ。

木村拓哉は100点 それ以外は0点 『検察側の罪人』50点

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木村拓哉を映画でみるのは初めてだったが、スクリーンがでかくてもカッコ良かった。
「かっこいい男」の代表として扱われるから、バカにされることもあるけれど、だからこそ、良い映画に恵まれてほしい。
しかし、今回はプロデューサー・監督・共演者に恵まれなかったようだ。残念というほかない。
あんなにかっこよくて、しかも今回は熱演しているのに・・・気の毒というほかない。

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そもそも、この原田眞人という監督。
近年は「大作」を撮っているようだが、観たいと思ったことがないので、観たことがないし、褒めてる人にもあったことがないので、この映画だけでしか評価できないが、ほんとうに「日本アカデミー賞」とかを取るような監督なのか??? かなり怪しいと思ったぞ。

 

駄作になった原因は、脚本での取捨選択ができなかった点にあるだろう。
はっきり不要な点は、
①二宮と吉高の恋愛シーン 
 バイクでの追跡場面あたりからバカさがエスカレートしていたが、キスシーンで二人とも完全なる「バカ」に脱皮した。二宮氏は背が低く童顔なので、迫力がない。役の幅は制限されるだろうな。吉高氏は、なんかものすごく評価が高いが、全然うまいとおもわないし、今回も場違い感がハンパない。
②政治家「タンノ」の妻のシーン:電話と葬式の場面
 現代日本の「右傾化」を戯画化を狙ったのだと思うが、映画の本筋とは全然関係ないのでは? 正義感があり、反戦思想も持っている人間が、個人的な復讐を果たす・・・というジレンマが全然かけてないし。それでも入れたいというなら、本を書いたらいいと思いますよ原田監督。本じゃなくても、SNSとかいろいろありますよ。
③二宮の最後のうめき場面
 キムタクは、「タンノ」が命がけで残した資料を二宮に見せ「日本に二度と戦争をさせないために、あいつは死んだんだ!」みたいなことをいうが、「いや、それをいま言われても・・・・」と思った。
インパールのくだり
 夢の場面はコントにしかみえない。

⑤キムタクの家族のシーン

 いいところにお住まいなんですね~。という感想しかない。娘役の若い女優。東宝シンデレラガールらしく、よくみるが、才能がなく、一ミリも光っていない。気の毒である。

 

さて、インパールに言及しながらの日本の右傾化を戯画化するというメッセージ自体には共感するが、映画のなかで「浮いている」。
インパール云々を強引に詰め込んだせいで、へっぽこで間抜けな映画に見えてしまう(とくに夢のシーン)。

エリートたちの葛藤を描くのは、岡本喜八の『日本の一番長い日』が代表的だと思うが、それを再映画化したのが同じ原田監督というのが、なんというか、ほんとうに日本の中堅どころの監督って人材がいないんだなあ。

悪口ばかり書いたが、キムタクの熱演は見所があり、基本的に彼が出ている場面は興味が持続した。

キムタク映画、またみたい。

キムタクを10歳くらい若返らせて、そこからミッション・インポッシブルみたいなシリーズを作ったらどんな映画になるだろうな・・・とか

沢田研二の『太陽を盗んだ男』みたいな映画を、キムタクで撮ってほしいな・・・とか

いろいろ妄想が膨らむので、結果的には映画をみてよかったのかもしれない。

散漫で浅いが、フィリップ・ロスの原作が読みたくなった 『アメリカン・バーニング』57点

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ユアン・マクレガーが監督・主演を務めたという本作。

日本では劇場公開されなかったが、DVDで鑑賞できる。
この作品をなぜ知ったかというと、原作がフィリップ・ロスの『アメリカン・パストラル』ということでつながった。

しかし、なぜ映画の邦題を『アメリカン・バーニング』にしたのか。安易でダサい。


フィリップ・ロスの小説は、最近一作品が新潮文庫に入ったし、柴田元幸訳のハードカバーも新刊で買えるが、ほとんどは古書でしか入手できない。

フィリップ・ロスには大江健三郎と似ているところがあるので、以前から気になっているが、それを書けば映画からどんどん離れるので、ここでは「フィリップ・ロスを読む代わりにまずは手軽に原作として使われた映画を観ようと思ってググったら、『アメリカン・バーニング』に出会った」ということにして、映画の内容に入ろう。

舞台はニュージャージー州ニューアーク。語り手は60歳をこえた小説家である。若いときには寄りつかなかった同窓会に久しぶりに出席すると懐かしい顔と出会った。その同級生の兄(ユアン・マクレガーが演じる)は、田舎町のスターだった。父親の手袋工場は繁盛して金持ちで、スポーツ万能でハンサム。誰もが憧れるその男について、弟は「人生がめちゃくちゃになって、死んだ。自分は葬式のために戻ってきたのだが、タイミング良く同窓会があったので出席しているんだ」と聞かされる。語り手は当然おどろく。あの輝いていたお兄さんの、「人生がめちゃくちゃ」になるなんて・・・


そして、映画はそのお兄さんの人生の話になる。「ミス●●」の美しい女性と結婚し、一人娘を授かり、工場もうまくいっていた。吃音の娘について、カウンセラーに相談すると「完璧な父と母に対する緊張・あるいは抵抗として、吃音症状が出ているのかも」と指摘されるが、両親は当然それを信じようとしない。しかし、この言葉は、映画全体を貫く「予言」でもあった。さて、破局の予兆は成長した娘を通して現れる。高校生になった娘がベトナム反戦運動に没頭し、ラディカルな運動にのめり込んでいくのだ。
娘の運動は、とうとう、近所の郵便局を爆破して警察の捜査の対象となり、地下に潜伏するというところまでいく。ユアン・マクレガーは、姿を消した娘を探し続けるが、その妻はなんとか娘を忘れようとする。一時は精神のバランスを失うも、整形手術により過去を断ち切ることに成功した妻は、恋愛にも積極的になっていく。


いろいろあって、ユアン・マクレガーは娘に再会。娘はインドの宗教にのめり込み、「生命を奪わない生活」と称して、風呂にも入らず、口を布で覆っている。不思議なことに口を覆った状態で話せば、吃音が出ないという。このあたりの父と娘の会話がよくできていた。最後はユアン・マクレガーの葬式に、遅れてやってきた娘の後ろ姿で終わる。

 と、あらすじを書けば「面白そうじゃん」と思われるかもしれない。実際、面白そうな映画ではある。

 しかし、この映画は肝心なところがかけていないと思った。ユアン・マクレガー演じる「完璧な男」の問題がうまくかけていない。事実、60年代において、黒人労働者にも寛容で、黒人暴動の際の対応が市から表彰される「名士」であり、真面目な経営者でもある彼が、なぜ「めちゃくちゃ」になってしまうのか。厳格なユダヤ教徒である父の影響は? それが家庭に及ぼした影は?

 そのあたりの掘り下げ(あるいは監督としての理解の提示)が不十分であり、単なる「かわいそうな話」になっている。タイトルからして、この「完璧な男」と戦後アメリカを重ねるしかけになっているのだと思う(思わせぶりにアメリカ国旗が出てくる場面もある)が、どう重なるのか、よくわからない。


原作の翻訳はないから、たぶん読まないと思うが、映画は、どうも未消化な感じがぬぐえない。ユアン・マクレガーが「悲劇の主人公」を演じているだけに見えたのが残念だった。
 唯一よかったのは、『デトロイト・ビカムヒューマン』でKARAを演じていた女優(名前は知らない)の演技と、主人公の父親の毒舌である。