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映画メインで諸々の感想を

平成の終わりと村下孝蔵

天皇が変わって10連休との報道をみた。

現・皇太子が天皇になるタイミングで、是非とも村下孝蔵『初恋』を歌って、それをTVで放映してほしいと思う。

顔が似ているし、ぜひ全力でモノマネ弾き語りをしてほしい。僕にはよくわからない儀式よりも、村下孝蔵コスプレで歌った方が良いのでは?

ちなみに、村下孝蔵。この曲しか知らないけれど、「風に舞った花びらが水面を揺らすように 愛という字書いてみてはふるえてたあの頃」というバースが、僕はとても好きだ。これは筋金入りのリリシストにしか書けない。

かりに思いついても恥ずかしくて、とても歌えないと思う。プロはすごいなあとただただ敬服する。

「浅い夢だから 胸を離れない」

の逆説も、グッとくる。

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 追記:全く知らなかったが、非常に若くで亡くなっておられるのだった・・・最近見ないはずである。残念だ。

木村拓哉は100点 それ以外は0点 『検察側の罪人』50点

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木村拓哉を映画でみるのは初めてだったが、スクリーンがでかくてもカッコ良かった。
「かっこいい男」の代表として扱われるから、バカにされることもあるけれど、だからこそ、良い映画に恵まれてほしい。
しかし、今回はプロデューサー・監督・共演者に恵まれなかったようだ。残念というほかない。
あんなにかっこよくて、しかも今回は熱演しているのに・・・気の毒というほかない。

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そもそも、この原田眞人という監督。
近年は「大作」を撮っているようだが、観たいと思ったことがないので、観たことがないし、褒めてる人にもあったことがないので、この映画だけでしか評価できないが、ほんとうに「日本アカデミー賞」とかを取るような監督なのか??? かなり怪しいと思ったぞ。

 

駄作になった原因は、脚本での取捨選択ができなかった点にあるだろう。
はっきり不要な点は、
①二宮と吉高の恋愛シーン 
 バイクでの追跡場面あたりからバカさがエスカレートしていたが、キスシーンで二人とも完全なる「バカ」に脱皮した。二宮氏は背が低く童顔なので、迫力がない。役の幅は制限されるだろうな。吉高氏は、なんかものすごく評価が高いが、全然うまいとおもわないし、今回も場違い感がハンパない。
②政治家「タンノ」の妻のシーン:電話と葬式の場面
 現代日本の「右傾化」を戯画化を狙ったのだと思うが、映画の本筋とは全然関係ないのでは? 正義感があり、反戦思想も持っている人間が、個人的な復讐を果たす・・・というジレンマが全然かけてないし。それでも入れたいというなら、本を書いたらいいと思いますよ原田監督。本じゃなくても、SNSとかいろいろありますよ。
③二宮の最後のうめき場面
 キムタクは、「タンノ」が命がけで残した資料を二宮に見せ「日本に二度と戦争をさせないために、あいつは死んだんだ!」みたいなことをいうが、「いや、それをいま言われても・・・・」と思った。
インパールのくだり
 夢の場面はコントにしかみえない。

⑤キムタクの家族のシーン

 いいところにお住まいなんですね~。という感想しかない。娘役の若い女優。東宝シンデレラガールらしく、よくみるが、才能がなく、一ミリも光っていない。気の毒である。

 

さて、インパールに言及しながらの日本の右傾化を戯画化するというメッセージ自体には共感するが、映画のなかで「浮いている」。
インパール云々を強引に詰め込んだせいで、へっぽこで間抜けな映画に見えてしまう(とくに夢のシーン)。

エリートたちの葛藤を描くのは、岡本喜八の『日本の一番長い日』が代表的だと思うが、それを再映画化したのが同じ原田監督というのが、なんというか、ほんとうに日本の中堅どころの監督って人材がいないんだなあ。

悪口ばかり書いたが、キムタクの熱演は見所があり、基本的に彼が出ている場面は興味が持続した。

キムタク映画、またみたい。

キムタクを10歳くらい若返らせて、そこからミッション・インポッシブルみたいなシリーズを作ったらどんな映画になるだろうな・・・とか

沢田研二の『太陽を盗んだ男』みたいな映画を、キムタクで撮ってほしいな・・・とか

いろいろ妄想が膨らむので、結果的には映画をみてよかったのかもしれない。

散漫で浅いが、フィリップ・ロスの原作が読みたくなった 『アメリカン・バーニング』57点

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ユアン・マクレガーが監督・主演を務めたという本作。

日本では劇場公開されなかったが、DVDで鑑賞できる。
この作品をなぜ知ったかというと、原作がフィリップ・ロスの『アメリカン・パストラル』ということでつながった。

しかし、なぜ映画の邦題を『アメリカン・バーニング』にしたのか。安易でダサい。


フィリップ・ロスの小説は、最近一作品が新潮文庫に入ったし、柴田元幸訳のハードカバーも新刊で買えるが、ほとんどは古書でしか入手できない。

フィリップ・ロスには大江健三郎と似ているところがあるので、以前から気になっているが、それを書けば映画からどんどん離れるので、ここでは「フィリップ・ロスを読む代わりにまずは手軽に原作として使われた映画を観ようと思ってググったら、『アメリカン・バーニング』に出会った」ということにして、映画の内容に入ろう。

舞台はニュージャージー州ニューアーク。語り手は60歳をこえた小説家である。若いときには寄りつかなかった同窓会に久しぶりに出席すると懐かしい顔と出会った。その同級生の兄(ユアン・マクレガーが演じる)は、田舎町のスターだった。父親の手袋工場は繁盛して金持ちで、スポーツ万能でハンサム。誰もが憧れるその男について、弟は「人生がめちゃくちゃになって、死んだ。自分は葬式のために戻ってきたのだが、タイミング良く同窓会があったので出席しているんだ」と聞かされる。語り手は当然おどろく。あの輝いていたお兄さんの、「人生がめちゃくちゃ」になるなんて・・・


そして、映画はそのお兄さんの人生の話になる。「ミス●●」の美しい女性と結婚し、一人娘を授かり、工場もうまくいっていた。吃音の娘について、カウンセラーに相談すると「完璧な父と母に対する緊張・あるいは抵抗として、吃音症状が出ているのかも」と指摘されるが、両親は当然それを信じようとしない。しかし、この言葉は、映画全体を貫く「予言」でもあった。さて、破局の予兆は成長した娘を通して現れる。高校生になった娘がベトナム反戦運動に没頭し、ラディカルな運動にのめり込んでいくのだ。
娘の運動は、とうとう、近所の郵便局を爆破して警察の捜査の対象となり、地下に潜伏するというところまでいく。ユアン・マクレガーは、姿を消した娘を探し続けるが、その妻はなんとか娘を忘れようとする。一時は精神のバランスを失うも、整形手術により過去を断ち切ることに成功した妻は、恋愛にも積極的になっていく。


いろいろあって、ユアン・マクレガーは娘に再会。娘はインドの宗教にのめり込み、「生命を奪わない生活」と称して、風呂にも入らず、口を布で覆っている。不思議なことに口を覆った状態で話せば、吃音が出ないという。このあたりの父と娘の会話がよくできていた。最後はユアン・マクレガーの葬式に、遅れてやってきた娘の後ろ姿で終わる。

 と、あらすじを書けば「面白そうじゃん」と思われるかもしれない。実際、面白そうな映画ではある。

 しかし、この映画は肝心なところがかけていないと思った。ユアン・マクレガー演じる「完璧な男」の問題がうまくかけていない。事実、60年代において、黒人労働者にも寛容で、黒人暴動の際の対応が市から表彰される「名士」であり、真面目な経営者でもある彼が、なぜ「めちゃくちゃ」になってしまうのか。厳格なユダヤ教徒である父の影響は? それが家庭に及ぼした影は?

 そのあたりの掘り下げ(あるいは監督としての理解の提示)が不十分であり、単なる「かわいそうな話」になっている。タイトルからして、この「完璧な男」と戦後アメリカを重ねるしかけになっているのだと思う(思わせぶりにアメリカ国旗が出てくる場面もある)が、どう重なるのか、よくわからない。


原作の翻訳はないから、たぶん読まないと思うが、映画は、どうも未消化な感じがぬぐえない。ユアン・マクレガーが「悲劇の主人公」を演じているだけに見えたのが残念だった。
 唯一よかったのは、『デトロイト・ビカムヒューマン』でKARAを演じていた女優(名前は知らない)の演技と、主人公の父親の毒舌である。

これを観れば他の日本映画がいかにクソかよくわかる 『カメラを止めるな』 90点

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2018年度最大の話題作ではないか。
現在はシネコンにも進出して、興行的に大成功。評論家・批評家の評判も高い。
半信半疑で観に行ったが、世間の評価に納得できた。
映画館が笑いの渦に包まれるという経験は、記憶している限りでは、人生二度目で、やはり笑い声がきこえてくる映画というのは良いものだ。万人がちゃんと笑えるというのは、ほんとうに難しい。吉本新喜劇に伝統的にみられる「チビ」「デブ」を笑う文化を否定するつもりはないけれど、本作のような「健康的」笑いは稀なだけに、新鮮だった。
監督やキャストの人たち、誰一人として知らない。観客の多くからすれば「無名」の人たちだ。それでも、これだけ面白い映画が作れるのだと証明したわけで、傍観者たる観客としてもうれしい。

 

そもそも、なぜこんなに日本映画がクソなのか。
それは「●●制作委員会」方式の映画作りにある。映画会社独自の企画が少なく、それで当たるのは東宝の若い人(君の名はとかのプロデューサーの人)くらいで、他のプロデューサーたちは何かの間違いで映画業界に入ったようなクズばかり。
ある程度プロモーションもできるし、観客を見込めるということで、映画会社はTV局や出版社からの企画に乗っかるかたちで、原作付きの安い恋愛・青春・コメディ映画を量産することになる。結果、バカが作ってバカが観に行くという負のスパイラルから抜け出せない。才能と野心のある人は海外に出て行くべきで、もう日本の映画会社は配給だけやっとけばいいと思います。

さて、この作品は、映画を撮ること自体が映画になっている。
小説でも、語り手が小説を書く小説は面白い。このあいだ読んだドナルド・E・ウェストレイクの『さらば、シェヘラザード』がまさにそういう小説だった。こういう仕掛けが好きな人は多いと思うが、個人な嗜好をこえて、「書くって何なんだろう」と考える契機が詰まっているのも良い。


『カメラを止めるな』も同じ。
大前提として、映画を撮るという行為、それに関わる人々への愛情があり、その上にドラマが展開している。ある意味では、『男はつらいよ』的な安心感があるのだ。

みんな褒めまくっているし、実際素晴らしい映画だったが、伏線部分が長くて退屈だったのは否めない。もちろん、そこでの違和感が次々と回収されていく後半の快感のためには、必要な長さだったのかもしれないけれど。

こういう映画をもっとみたい 『レディ・バード』 91点

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ごくたまに、「タイムマシンがあれば、自分の父親や母親が若い頃に戻って、両親がそれぞれ初めて車に乗ったり、お酒を飲んだりしている、その瞬間を見てみたい」と思うのだが、映画の最後の場面で、いつもより強くそう思った。
初めて免許を取った主人公と、現在の母親が重なる場面だ。
青春物語としてレベルが高いと思って見ていただけに、親の気持ちも上手に掘り下げるラスト10分くらいが意外な喜びだった。

カリフォルニア州サクラメントにあるカトリック系の高校に通う17歳の主人公が「レディ・バード」。
クリスティーンという本名だが、「レディ・バード」を自称して、周囲にもそう呼ぶようにアピールする。
そんな彼女の、いわゆる「イタい」思春期を丁寧に追うところに、この映画の特徴がある。
最後、NYからの電話で、彼女はもう「レディ・バード」を自称しない、そこに彼女の成長がわかりやすく刻印されていた。
細々とした日常生活の描写が素晴らしく、同じく田舎生まれの自分にも思い当たるところがあった。
そうした「イタさ」はいろんな人が指摘してるだろうから、ここでは別の視点からこの映画を称えておきたい。


それは、「レディ・バード」の家族だ。

レディ・バード」の家には、両親と兄とその恋人、そして彼女の五人が住んでいる。
兄はアジア系で、両親とは顔立ちがまるで違うから、おそらくは養子なのだろうと思う(そのあたりをいちいち説明しないのがよい)。
映画の最後、母親が破り捨てた書きかけの手紙を、NYのレディ・バードが読む場面がある。
手紙には「もう妊娠を諦めていたときにあなたを身ごもって・・・」という一節があった。
なるほど、そういう経緯があり、両親は養子をとったのかな、と推測した。
その兄だけでなく、兄の彼女(彼女の背景も、多くは語られないが、親に捨てられたとつぶやいていた)をも、家に住ませてあげている。
思春期の「イタさ」を緻密に描くためには、それを受け止める家族をしっかりと描く必要があるのだな、と感心した。

 

ちなみに、最初の方で、車の中で『怒りの葡萄』の朗読テープを聴いている場面があった。母親が感動していたのはわかるが、助手席の娘も泣いていた。あれは朗読内容に感動して泣いていたのだろうか。それなら、よい親子だし、通じ合う感性を持っているということが、見事に表現できていると思う。

問題提起とサスペンスのバランスが絶妙。『ウインド・リバー』 87点

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監督・脚本はテイラー・シェリダン。今後はこの人にも注目していくことになるだろう。
脚本家としてはすでに高名なようで、この人が脚本を手掛けた作品も時間を作って追いかけたい。ネットフィリックスに上がっている模様。

映画の舞台は、ワイオミング州ネイティブ・アメリカン保留地。
そこで暮らす主人公は、ネイティブの女性と結婚し、二人の子どもを持つが、長女が謎の死を遂げている。心の傷から、現在は別居中(離婚かもしれない)
ある日、牛を襲うピューマ(?)退治の仕事の最中に、主人公は女性の死体を見つける。
死体にはレイプされた跡があるが、死因は窒息死。マイナス30度の冷気によって肺が破裂して血が出たために窒息死したのだ。レイプされて逃げる最中に死んだものと推測される。
主人公にとっての衝撃は、その女性死体が親友の娘だったことだ。主人公の死んだ娘と、幼少期から仲良くしてくれた女の子が、無残に死んでいる・・・
ここに女性のFBI捜査官が登場し、映画はバディものの体裁をとりながら、事件の究明に向かっていく。

この映画のバランスの良さは、ネイティブ・アメリカンたちの現状をうまく取り込んでいる点にある。
周囲に目立った仕事はなく、教育を受ける場所も限られている。大学はない。
こうした町で、非行に走るくらいしかやることがない「クズ」たちの姿が、上手に取られている。
死んだ女の子の兄貴が、どうしようもない。
その兄に対して「働くこともできた、大学に行くこともできた。選んだのはお前だ」と突き放す主人公。
その兄は「お前になんか俺の気持ちがわかるか!」と言い放つが、それに対する主人公の言葉がよかった。
大意だが、「まったく平等ではないこの世界を恨む気持ちは分かる。しかし、世界と戦っても勝てない。俺は、世界を恨む自分の感情と戦うことにしたんだ」。
能天気な観客としては、いや世界と戦ってくれ!と言いたくもなるが、それはないものねだりだろう。
主人公が踏ん張って生きている姿に、打たれた。

娘を失うという体験を不幸にも共有してしまった主人公と、その親友のネイティブ・アメリカンの男性二人が、二人で座っている場面はとても良かった。
死のうと思っていた親友の男性は、死に化粧として顔にペイントをしている。顔面を青く塗って、その上から白のラインを引く化粧で、一瞬ギョッとしてしまう。
伝統的なペイントなのかなと思ってみていると、「誰も教えてくれないから自己流で塗った」と言う。
このセリフも良かった。
ユーモアと「少数民族」の伝統の断絶とが、同居している。
死のうと思っていたが、刑務所にいる絶縁した息子(上に書いたクズ)から電話があった。化粧を落としたら迎えに行こうと思う。そう語る男性の顔は、穏やかだ。
喪失と、ほんの少しの回復が、丁寧に追われていると感じた。
やはり脚本が良いのだ。

任侠映画的構造で、最後はしっかりと復讐をやり遂げるのも、好きな点だ。。
犯人たちはほんとうにクズであり、観客としてはもっと痛めつけて欲しかった気もする。
こう書いてしまうと、僕自身がダメ人間だということになるかもしれないが、個人による復讐の暴力はフィクションが持つ魅力だと思うから。

 

キネマ旬報』という広告収入頼みの映画PR雑誌があるが、そこでの評価は次のような感じ。
五つ星評価で、星5つが一人、星3つが二人。
星三つってことはないと思うが、謎の伝統だけしか誇れるものがないクソ雑誌なので仕方がない。
当然立ち読みで済ませる。
『映画評論』を確認したかったが、本屋にはないのであった。
大きな本屋に立ち寄っても、読みたい本がないのが悲しい。古本屋が楽しい。

すみません眠かったです『海を駆ける』43点

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ファンタジーっぽい作品と知って、やや嫌な予感がした。
ファンタジーといえば、邦画では基本に「心温まる」という感じで食傷気味。
でも、深田晃司監督ならば、「心温まる」系の最大公約数を狙った映画ではないだろうという信頼があったので、観ることにした。
信頼といっても、深田監督の映画は初めて見る。
ではなぜ信頼できるのかというと、このサイトでのインタビュー記事を読んで、関心を持ったからだ。
https://www.christiantoday.co.jp/articles/22964/20170105/fuchi-movie-fukada-koji-1.htm
恥ずかしながら、フランスで高い評価を得ていることさえ知らなかった。

さて、内容だが、インドネシア人と日本人の交流のなかに、トリックスターとして記憶喪失の男が来て、去って行くという話。
日本側は、スマトラ島北部のアチェという場所でインドネシア津波支援に関わるNGO職員・鶴田真由とその家族・友人。
鶴田真由のパートナーはインドネシア人で、息子はインドネシア国籍を選択している。
そこに、鶴田真由の姪がやってくる。目的はなくなった父親の遺骨を、父の思い出の場所に散骨すること。父の思い出の場所は、遺品の写真だけが手がかりだ。ということで、ここに一つ物語の推進力がある。姪の父親は、東日本大震災津波で死んだということになっているのかどうか、パンフレットを買っていないのでわからないのだが、どうもそんな気がするような描き方だった。思わせぶりだ。
他方、インドネシア側は、ジャーナリスト志望の女の子(イルマ)と、その幼馴染の男の子。イルマは学費が確保できずに大学進学をあきらめているが、ジャーナリストになるためにドキュメンタリーを撮ろうとしており、その対象が鶴田真由らのNGOなのだ。イルマの父親は、アチェ独立運動に関わり、インドネシア軍に拷問された経験を持つ。後遺症で足が不自由だ。幼馴染の男の子のほうは、津波で母を失っている。
これだけでもう映画のパーツは十分! という感じだが、そこにディーン・フジオカがやってくる。ある日海岸に漂流した彼は、記憶を失っており、名前もわからないので「ラウ」と名付けられる。「ラウ」とはインドネシア語で「海」という意味だそうだ。
「ラウ」は、不思議な力を持っており、手のひらから水を出したり、水をお湯に変えたり、人に幻覚をみせたり気絶させたり、ワープしたりとやりたい放題。

これだけ揃ったら絶対面白いだろうと思われるかもしれない。
私もそう思う。
でも、文字に起こすのと映画はやはり違って、観ている間は眠かった。
映画館の椅子が上等だったということもあり、ものすごく眠いのだ。
「ああ、なんかここに監督は意味を込めたんだろうな」というような場面が多いが、いまいちよくわからない。
ただ、映像のパワーは確かにあって、特に最後の場面はずっと見ていたいくらい。あとは、インドネシア人が幼少期に日本兵から習ったという「抜刀隊の歌」を歌う場面も、惹きつけられた。
俳優の演技も良く、好印象。
ただ、繰り返すが、ものすごく退屈。その退屈さのなかに「映画とはなにか」を考えさせる契機が多様に埋め込まれているとは言える。
文学や絵画と同様、描き方が大事なのであって、退屈とかいうのは野暮なのもわかる。わかるが・・・でもやっぱ退屈なのはダメだよねということで、43点。