『沈黙』 73点

遠藤周作の原作を読んだとき、迫害を受ける民衆の姿がただただ痛ましく、読むのが辛かった思い出がある。

映画化となれば、当然、拷問の場面を克明に描くことになるのだろう。
そう思って観に行ったら、やはりその通り。

荒波に打たれ続ける、藁を巻いて泳げない状態で海に落とされる、逆さに吊られ続ける・・・。

その時のキリシタンたちのうめき声、叫び声、泣き声が辛い。
BGMがほとんどない映画だったせいもあり、人間の声が耳に残りやすく、それは良いのだが、苦悶の声までもクリアだった。
にもかかわらず神は「沈黙」するのか? という問いを突き付けたいのは嫌というほどわかる。
でも、途中からそれに耐えられず、パードレたちに対して「早く棄教してください」と思うようになり、終盤は「早く棄教しろよ!」と怒りすら覚えた。
観ていても「信仰とは何なのか・・・?」と深刻な顔で考える気にはなれず、あんな恐ろしいことになるくらいなら「信仰の自由」は確保しよう!としか思えない。

 

ウルフ・オブ・ウォールストリート』がとても面白かったスコセッシだが、今回は乗れなかった。映画館を出たら寒いし・・・夏に観たかったかな。なんとなく。

  

ちなみに『キネマ旬報』2月上旬号によると、スコセッシが『沈黙』の映画化を構想し始めたのは1988年。
1991年には、ニューヨークのホテルで遠藤周作に会い、直接映画化をお願いしたとのこと。

キネマ旬報』の記事で、スコセッシが、面白いことを言っていた。
今回の映画では建築物にこだわったが、畳が難しかったというのだ。
畳の上での芝居を撮ろうとしたが、自分の空間感覚が変わってしまい、うまく撮れないのだという。
それがどの程度関係しているのかはわからないが、カメラの位置や俳優の動きは、日本人技術スタッフや俳優に任せる部分も多かったとのこと。

 

最後にスコセッシが70年代の日本映画について語っているところを引用しておく。
「70年代初めの日本映画には、すべての要素があります。みな日本映画のようにやろうとしたのです。日本のヌーヴェル・ヴァーグ、すなわち大島渚今村昌平篠田正浩、彼ら驚くべき才能から、私たちはどんどん学びました。ニューヨークでもロスでも、毎週彼らの新作が封切られていたのです。」
おもしろい。

 

『アイ・イン・ザ・スカイ』 78点

戦争の現在地を鋭く捉えた映画、ということになるだろう。

 

ケニアの過激派テロ組織が、新たな自爆テロを計画している。
この組織のメンバーにはイギリス人やアメリカ人もおり、どうやら世界中から「兵士」をリクルートしているようだ(明らかにISを想定している)。
長年この組織を追いかけてきたイギリス軍だが、その監視の仕方がとても現代的だ。
アメリカ軍とイギリス軍は、上空のドローンから敵を監視する。ケニアの現地部隊はハイテク機器(あの虫型の移動カメラは実在するのか?)で室内までも見通すことができる。
その映像を、ロンドン、ハワイ、ラスベガスで政府高官や軍人たちが見守っている。

標的となるテロ集団をドローンから攻撃する予定だったが、アジトの近くにはパンを売る少女がおり、いま攻撃すると少女を巻き込みかねない。

かといって、攻撃を延期すれば、自爆テロにより多数の市民が死傷する可能性がある。
どちらを選ぶべきなのか・・・というある意味ではよくある問いで、観客を引っ張るのである。

僕はこういう「究極の選択」系で観客や読者を引っ張る手法をあまり好まない。
答えは「わからない」し、そんな選択を個人ができるわけもないと思うからだ。
そういう選択を突き付けられても、「いや、そうならないために努力しましょうよ」としか言えないが、そう答えると「逃げだ」「無責任だ」とか言われそうな気がする。
でも、人を殺した「責任」なんか、誰がどうやってとるのか。
戦争映画に出てくる「真顔で決断を迫ってくる軍人」という表象にはげんなりさせられるが、今回の映画もそうだった。

話を映画に戻すと、最も興味深いのは、ラスベガスの米軍基地でドローンを操縦する若者二人の描写だった。
コンテナのような狭い空間で、モニターを凝視し、極度の緊張を強いられる若者たちの表情をみていると、現代の戦争においても、兵士は加害者であると同時に被害者なのだなと感じた。

一応の主人公が女性軍人というのも「現代的」なのだろうか。


真摯な問いを投げかける軍事サスペンスで、「ドローンの戦争」というひと昔前ならばSF的でさえあるようなテーマを描き切った力作、と評価したいところだが、そう言いきるには、モヤモヤが残る映画だった。

でも、考えてみれば、こうしたモヤモヤが残るということ自体、最近観た映画では珍しく、それはそれで得難い経験だった。

『マイルス・デイビス 空白の5年間』 76点

ジャズは全然わからないけれど、そのかっこよさに惹かれて、大学の時にいろいろ聴いた。
「わからないのにかっこいい」と思えたのはなぜかというと、当時読んでいた中上健次村上春樹がジャズを褒めていたからだ。
一種の「教養」として「勉強」しようとして、一週間くらいでやめた。
その一週間で聴いたCDのなかに、マイルス・デイビスは当然入っていた。

それだけなら別によくある話で、わざわざこの映画を観に行くことはなかっただろうが、ドン・チードルが監督・主演していると知り、気になったのだった。
ドン・チードルは、大学の時の授業で観た『クラッシュ』や、大学のときのバイト仲間と観た『ホテル・ルワンダ』以来、あの目と鼻と口が気になっていた(52才だとは!)。

というわけで『マイルス・デイビス 空白の五日間』を観た。
「才能ある人間が駄目になっていく」という話が好物なので、面白く観ることができた(正確には「駄目になっていた時期」であり、その後復帰している)。

劇中で、ドン・チードル演じるマイルスが「昔のファンは、昔の俺の演奏が好きだが、俺は変わり続けている」というようなことを言っていた。
それは確かにそうだが、たとえば昔の「乾杯」を聴きたいのに、今のナガブチの「乾杯」を聴かされてしまうとそれはそれでガッカリするのも事実。

ここで、あえて、作り手側になって考えてみる。
どこに行っても「あの曲を(あの時のままで)やって」と言われると辛いだろう。
「それならCDでええやんか」と言いたくなるかもしれない。
そう思うと、ドン・チードルが演じるマイルスの気持ちもわからなくもない。

良かったシーンはいくつもあるが、「現在」と「過去」のマイルスが交錯する場面が印象に残っている。特にボクシングの試合の場面。

撮り方以外にもグッと来たのは、クラウドファンディングで資金を集め、取材と役作りに心血を注いだドンチー(略)の情熱だ。
「僕、マイルス・デイビスが大好きなんです」というのが伝わって来て、ちゃんと「マイルス」が憑依していた。
ローリングストーンズ誌の記者役のユアン・マクレガーも良かった。

ただよくわからなかったのが、70年代後半のマイルスのファッション。
なんか原色のキラキラで、アースウインド&ファイアーの人みたいな感じ(ファッションに詳しくないのでわかりません)

 

もっと知りたいと思った点もある。

マイルスは、自身の音楽を「ソーシャル・ミュージック」と呼んでいたとのことだが、なぜそのような発想に至ったのか、知りたい。

 

原題は『MILES AHEAD』で、邦題よりも、そっちの方がいいだろう。
日本で英語教育が進んだ十年後くらいには、英語圏の映画は英語表記のままで公開される日が来るのかもしれない、などと思った。

話は完全に変わるが、この二年くらい、10代半ば向けの恋愛邦画が多い。
あの流れははやく終わればいいと心から願っている。

山上たつひこ『ごめん下さい』(双葉社、1984年) 67点

雑誌『スーパーアクション』1983年6月号から84年5月号まで連載されたギャグマンガ

山上たつひこといえば『がきデカ』で、あの破壊力を期待して読むとどうにも消化不良。
ギャグも下ネタも、現実からの乖離度が低く、想定内に収まっている。

老母が垂れた乳房をくくったりするという発想は、90年代の吉本新喜劇で観た気がするが、83年のこのマンガが最初なのだろうか? 

よくわからない。

最初だったらすごいという気もする。

いずれにせよ、電車のなかで読むのがやや恥ずかしかった。

しばしば言われるように、ギャグマンガ家が時代の先を行っている期間は意外と短い。

山上たつひこの場合は、『がきデカ』を連載していた70年代後半がその時期にあたるのだろうか?
それを確かめるためにも、80年代の山上たつひこをもう少し読んでみよう。

『この世界の片隅に』 89点

「15年戦争」とか「アジア・太平洋戦争」とかよばれるあの戦争の末期。
その時代を想像するとき、私たちは「暗い谷間の時代」として思い起こしがちだ。
人びとは、不本意な戦争に「まきこまれ」、それでも不平不満はあからさまに言えず、粛々と国家の滅亡に同伴した・・・
しかし、そんなに単純ではないということは、少し考えればわかる。
生きている者たちは、いつの時代も、基本的には自分の周囲50メートルくらいの現実を必死で生きることしかできない。時折、通信や交通といったインフラや想像力によって50メートルを超えることはあっても、やはり基本的には50メートル以内の生活圏で生き死するものだ。
一般論だが、必死で生きるなかには、楽しいことも辛いこともあるだろう。
辛いときにも、その状況を自分の手で変えられない場合は、なんとか日常に楽しい点を見出して生きていくしかない。

その切実な努力(当人たちは努力だと思っていない場合も多い)を、この映画は克明に描いていた。
私がこの映画を良いと思う理由のほとんどは、そこにある。

主人公が絵が好きだというのも、この切実な努力を彩っていたように思う。
絵を描くこと。
手を動かして現実を捉えること。
デフォルメして色を塗って現実を相対化すること。
それは(ぼんやり・おっとりしている)主人公が、彼女なりに現実と向き合う手がかりだ。
だから主人公が、右手を失うのが、悲しい。

ほかにもいろいろ言いたいことはあるが、頭が痛いので今日はこの辺で。
また後日書き足したい。

映画『ソーセージ・パーティ』 73点

近年話題になる3Dアニメは、「お子様にもおススメできます」という「正しさ」を満たしつつ、上質のエンターテイメントになっているものばかり。
そのレベルの高さに驚くとともに、食傷気味なのも事実。
バカっぽい3Dアニメがあってもいいと思っていたら、本作『ソーセージ・パーティ』が公開されていることを知った。

 

スーパーマーケットの商品(主に食品)を擬人化した3Dアニメだ。
スーパーの商品たちは、人間を「神様」と呼び、「神様」に選ばれてスーパーの外に出ることを夢見ている。商品たちは、スーパーの外が「楽園」だという神話を完全に信じている。
実は、この神話、賞味期限のない食品たち(たとえばウイスキー)が創り出したものだった。
食材たちは人間に食われるだけの運命に耐えられない。そこで、ウィスキーたちは、人間を神様だとみなし、神様に選ばれることは幸せなことだというウソを創ったのである。
主人公のソーセージは、神話のウソに気づき、他の食材たちと協力して、人間に食われるという運命に抗おうとする。
虚構から現実へと覚醒する食材たち・・・自分で書いていてよくわからなくなってきたが、こういうストーリーだ。

 

しかし、本作の魅力は、ストーリーにはない。
擬人化された商品たちの造形の魅力(特にガム)
随所にちりばめられたパロディ(ディズニーアニメのテイスト、ターミネーターなど)
圧倒的下ネタ(ラストの乱交)
もっとも唖然としたのは、食材たちが「自分たちは虚構の存在だ」と気が付くラストだ。

 

食材たちが人間と戦い、勝つ。
しかし、勝ったところで、彼らは人間に食べられるために作られ、集められた存在であることに変わりはない。
食材たちは、生の目的を独自に見つけなければならないが、それは難しい(映画のなかでは性の饗宴が楽しそうに描かれてはいたが、それは持続するものではない)。そう思うと、食材たちが人間に勝っても、単に「めでたしめでたし」とは言えない・・・

そう思っていたら、「自分たちは虚構の存在でここはパラレルワールドだ」と宣言する。
そして、時空を超えるマシーンを通って「こちら側の人間の世界」に来る、というラストである。


ここで観客は、うすうす感じていたことに、改めて気づかされる。
食材たちがそれぞれに抱える文化的・民族的多様性や性的な固定観念は、現実世界の私たちの写し鏡であるということを、映像的に納得できるのである。
もっとも、スーパーマーケットにあるのは、「商品化された文化的・民族的多様性」だという点も考慮したい。それでも、スーパーマーケットがこの世界を考える入り口になるのだと示している点で、おもしろい映画だった。

 

これまで一度も見たことがないタイプの映画であり、その意味では忘れがたい。もう一度みればいろいろな発見があるのかもしれないが、そういう気になれないのも、この映画のサッパリした美点だ。
こうした作品にそれなりのお金をかけられるアメリカが、少し羨ましい気がした。

僕も書きたい「食エッセイ」

食べるのが嫌いな人は、一人しか知らないけれど、その人だって、生きている以上は食べているわけだし、空腹のときに何か口に入れたら「おいしい」と感じているはずだ。
「海外旅行に行ったことがないんです」という人はいても、「食べたことないんです」は基本あり得ない。

だから、食エッセイが尽きないのも当然である。
グルメ漫画も、テレビの食ルポ番組も、尽きない。
メディアが食を伝えるのは、安易な企画ではなくて、王道なのだ。

それでは自分でも書いてみようと思った。
が、書けない。

本や映画の感想は書けても、食事の感想についてはとてもムツカシイ。
自分の能力の問題もあるだろうが、そもそも、味に関しては語彙が限られている。
「おいしい」「うまい」くらいしか思い浮かぶ言葉がないのだ。
無理にたとえようとしても、なかなか良いのが出ない。
というか、これまで自分は何かを食べ物にたとえたことあっても、食べ物を何かにたとえたことはほとんどないと気づく。

味は書けないと諦めて、食べ方とか、何を考えて食べてるかとか、そういう自分の行動を書いてみようとしても、やはり上手く行かない。
食べているときの自分はなかなか客観視できないので、自分がどうやって食べているか、よく覚えていないのだ。
夢のように、すぐに忘れてしまう。

そこで、偉大なる先達、東海林さだお先生の「丸かじり」シリーズから、一冊手に取ってみた(暇だというわけではありません。一種の現実逃避です)。
なるほど、さすがは、東海林さだお
一読しての感想は、食べる前の妄想(おかずや肴を口に運ぶ順番・タイミング)が多いと言うことだ。
さらに、他人の観察。ほんとによく人を見ているなという感じ(現にいま、下町の喫茶店にいるが、16時を過ぎた時点で、小太りの女性が一人で入店。少し照れたように「チャーハンを」と注文し、タバコに火をつけた。その人の少し照れた感じを、その人に憑依してアレコレ書いてみるという手もある)。

当たり前のことだが、要は、最初から今日の食事を書くつもりで食う、というのがポイントなのだろう。
しかし、東海林さだおのエッセイは商売だが、僕はただの趣味だ。
飯くらい、何も考えずに食べたい気もする。

腹が減ってたら何でもうまいし。