読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

自分の年齢と他人の名前

子どものころ、一年に何度か「自分の年齢をすぐにいえない大人」に遭遇した。
「え~、いま●●年? じゃあ、□歳か?」
と計算している大人の姿をよく覚えている。
なんで自分の年齢を忘れるということがあり得るのか、不思議だった。
大人と言うのはそういうもんなのか、と思っていた。

 

年齢とは逆に、大人たち(というか年上の人たち)が芸能人の名前をよく知っているのには、子どもながらとても感心していた。
たとえば、従兄とテレビのバラエティ番組を見ていて、「これは?」と指さすと「それは○○」と即答してくれたのを覚えている。
「なんで知ってんの?」と訊くと、「何でって、有名人やで」というようなことを言われて、そんなもんなのか、と思ったのもよく記憶している。

 

さて、時が経って、大人になると、自分も「そういう大人」になっていた。
自分の年齢を即答できなくなったのは、30を過ぎてから。
芸能人の名前については、10代半ばになるとだいたい覚えるようになった。

 

なぜ年齢を忘れるようになったのか、よくわからないが、自問してみると、いろんなことを諦めるようになったからかもしれない。
高校生・大学生のころは、有名人が何歳でなにをしていたのか、とても気になった。
ああ、この作家はもうこの年齢で書きだしてたのか。
あ、この人はデビューが遅いな。
え? 俺より年下!? とか。
自意識過剰と言えばそれまでかもしれないが、自分が若く、これから何にでもなれるという可能性を持てあましていたようにも思う。

 

他方で、近年は芸能人の名前が全然わからない。
これは、テレビに触れる機会が少なくなったためだろう。
「髪の毛を染めていたり、刈り上げている場合は、エクザイルが多い」
「華奢な体の男性が集団でいたらジャニーズが多い」
という法則でなんとか乗り切ってきたが、若手俳優になるとお手上げである。
女性俳優も、全然わからない。石原さとみ長澤まさみ綾瀬はるかみたいに、漢字+ひらがな、だと名前は覚えやすい。

 

ということで、今回は、話にオチをつけない勇気・話をまとめない勇気を実践してみた。
単に怠惰なだけだが。

観てしまった『ゴーストバスターズ』

子どもの頃によくテレビでやっていたが、どのエピソードが1か2か、記憶が混乱している。1は1984年、2は1989年ということだから、実に27年ぶりのリブートだ。

 

で、今回の『ゴーストバスターズ』、総合的な評価は、記憶のなかの80年代の『ゴーストバスターズ』と全く同じ。
残酷な暴力シーンも、過度にセクシャルなシーンもない。老若男女誰でも楽しめる「夏休み映画」になっていた。

映画が終わった直後の印象は「100%の力を出して、70点を狙いにいって、ちゃんと70点を出した」という感じ。通俗的であることは間違いない。でも素晴らしい通俗だった。
現場が楽しそうな感じがよく出ていて、こちらも楽しめた。

DVDになっても観ることはないだろうから、たぶん二度と観ないだろうけど「あー面白かった」でスパッと次に行ける、そういう切れ味のいい快作。

あと、破壊シーンのリアリティは、『シン・ゴジラ』より良くできているように思う。彼我の差を感じる。

 

さて、今回のリブート作品、主人公たちが全員女性になってるというのが大きな変更点だ。
そうはいっても、別に「女性らしさ」が過度にアピールされることもない。
何の違和感もなく「ゴーストバスターズ」をしていた。
 ・テニュア直前で首になる科学者(クリステン・ウィグ)、
 ・その旧友でいまは不遇の科学者(メリッサ・マッカーシー
 ・その助手(ケイト・マッキノン かっこいい) 
 ・地下鉄の職員(レスリー・ジョーンズ)
四人の女性たちの私生活の描写が全くなかったのも、楽しさの理由かもしれない。「一人だけ黒人」というステレオタイプに批判もあるようだが、ステレオタイプを目指しているのだから、そうした批判はやや的外れだろう。

むしろ気になったのは、核兵器放射線の無邪気な描き方。これもアメリカ映画にはよくあるタイプのもので、ちょっとどうかなとは思うが、なんか批判する気にはなれなかった。

余計な連想だが、日本で「ゴースト(幽霊)」が出てきて、こういう楽しい映画って、どういうのがあるのだろう。すぐには思いつかない。

三谷幸喜の何かの作品で西田敏行が演じてた記憶があるが、楽しくないしなあ。

 

まあとにかく、良い映画でした。何回か声出して笑ったし。

一人で必死に考えている人

昔、小説家になりたかった。
いまも少しその気持ちは残っているが、現時点では何も書いていないから、なれる見込みはゼロだ。
だからというわけではないが、他人が一生懸命書いている姿を見ると、熱くなる。

 

といっても、「他人が一生懸命書いている姿」を実際に目にする機会は少ない。

スタバ的空間の横を通るときに、「私、書いてます!書いてるんです!!どうですか皆さん?」という顔でMACをカタカタやっているファッション雑誌そのままな身なりの人間を見る機会があるが、なんか釈然としない。
やはり「書く」というのはどこか恥ずかしいもので、一人で集中するものだ。いや断言できないけど、そうあってほしい。

 

したがって、余計なことを考えずに「他人が一生懸命書いている姿」に触れるのは、フィクションを通してであることが多い。
たとえば、マンガでいうと『まんが道』『バクマン』『ブラックジャック創作秘話』。
先日観たのは、赤狩りでハリウッドを干された脚本家を描いた、映画『トランボ』。
(なんかもっとあるはずだが、全然思い出せない・・・)

 

しかし、フィクションの常で、主人公たちは基本的に絶対に成功する(脇役は夢破れたり、志半ばで筆を折ったりするが)。そうなると、小説家になれなかった自分は結局この物語では「脇役」なのかな……などと一人で感じて、苦い思いをすることになる。

 

では、そういう苦い思いをせずに、「一生懸命書いている姿」を観る機会がないのかというと、そうでもない。
代用品はある。

 

それは将棋だ。
長いときは二日間、大人が二人で向かい合って、必死で考えている。そして、必ずどちらかは負ける。
負けても終わりではなく、感想戦をして反省し、そしてまた次の対局にむかって準備をする。
もちろん、棋士は考えて指しているのであって、「書いている」わけではないけれど、なんとなく似ている気がして惹かれる。
ああでもないこうでもないと答えを探し続ける姿がカッコいい(強いとお金もたくさんもらえるし)。

 

翻って自分はどうなのか? 

いやでも、あんまり自分を問い詰めるとしんどいし、とりあえずちょっと昼寝してから考えるか。

ゴジラはやっぱり夜がいい ~『シン・ゴジラ』(2016)感想~

ゴジラ』のような有名シリーズの映画化は、どこかスポーツに似ている、気がする。

決まったルールに従って、いかに現代的な物語りを紡ぐか、如何に面白い演出をするか、というのを競っているようなところがあるからだ。

当然ながら、庵野秀明以下の製作者たちは、ほとんどすべての観客よりも時間と労力をかけてゴジラについて考え続けたはずだ。だから、私はお金を払って「あー面白かった」と言っておけばそれで良いような気もするのだが、せっかくブログをはじめたのだし、忘れないうちに感想を書き連ねておくことにする。

初代『ゴジラ』(1954)が「戦争の記憶」や「核実験の恐怖」を色濃く反映していたのに対し、『シン・ゴジラ』は「『3.11』後のゴジラ」という要素が前面に出ていた。
放射線による汚染、防護服を着た公務員、一般市民の待避、避難所の様子首相、官邸周辺に押し寄せるデモ・・・こうした映像を観て、多くの観客は五年前を思い出しただろう。
いま『ゴジラ』を撮るなら、共有された災害の記憶をうまく刺激するのは当たり前で、そこに「戦争の記憶」はほとんどなかった(後述するように被爆関連のものは少し出てくるが)。

初代ゴジラから受け継いだ核との関りは、今作も随所で強調されている。
もっともわかりやすい繋がりとしては、ゴジラの「出生の秘密」だろう。今作のゴジラは、各国が無秩序に海洋に廃棄した放射性物質を食べた太古の生物が、独自の進化を遂げたという設定になっている。
それよりも興味をひかれたのは、ゴジラに対する核攻撃の決定だ。
国連安保理が核攻撃を決議し、アメリカの核兵器ゴジラに対して使用されようとする。日本の政治家たちは、東京兵の核兵器の投下を拒むことが出来ず、日本がアメリカの「属国」だと再認識するが、主人公は核攻撃の前に別の手段でゴジラを倒そうとする・・・
この過程で、石原さとみ演じる人物の祖母が被爆者だという事実が明らかになる。
さらに、被曝建造物のモノクロ写真が挿入されるという演出もあった。広島の原爆ドームと、長崎の片足鳥居の写真が、それぞれ1~2秒ほど、挿入されていた。この点、誰かが口頭で被爆の惨禍を説明するのではなく、写真の挿入で済ませたというのは、納得がいった。なぜか。

原爆が落ちた後の広島・長崎の状況は、どれだけ熱意をもって演じたり語り直したりしても、じゅうぶんに捉えることはできない(そもそも、過去を再現するのは不可能だ)。たとえ作り手の意図がどれだけ真摯なものであったとしても、興行の側面をもつ劇映画が、被爆を再現することは、悲劇自体を「売り物」してしまいかねないという危険性を常にはらむ。それならば、映画のなかでドキュメント映像や写真を紹介し、観客に1945年8月6日と9日を想像させるという手法のほうが、私としては納得できる(吉田喜重の映画『鏡の女たち』を思い出されよ)。

話は変わるが、夜、というのはパニック映画の見せ場だと思う。
初代ゴジラが不気味にみえたのは、ゴジラが夜に東京を襲う点にあった(その意味では、数年前のハリウッド版ゴジラも、夜の良さが出ていた)。
ひるがえって、『シン・ゴジラ』では夜のシーンが少ないのがやや残念。
「いつ夜になるのかな」と思っていると、東京が火の海になる場面は、ちゃんと夜で、そこはガッツリ堪能した。
思えば、日本の大都市が壊滅する場面を映画で観るのは、本当に久しぶりだった。破壊とか廃墟というのは、(なぜだかわからないが)いつまでたっても観る者を魅了するコンテンツだろう。一夜明けた東京の廃墟の様子は、『戦場のピアニスト』を思わせる奥行で、迫力があった。
しかし、どうも全編を通して、「民間人が多数、死んでいる」というリアリティは感じられず、切迫感が薄くなっていた。だからと言って死体を描けば良いというわけでもない。いずれにせよ、私に特に対案はないので、これは「ないものねだり」。

電気屋の売り場に並ぶテレビが、どのモニターもゴジラ襲来を伝えているなかで、一局だけアニメの再放送(「みつばちハッチ」?)をしている。テレビ東京へのリスペクトだろうか。

一番印象に残ったのは、ゴジラ再上陸時に「なんでまたこっちに来るんだ!?」と閣僚が叫ぶシーンと、ゴジラの長い尻尾。
物足りなかったのは、ゴジラの最期。
あと、エヴァンゲリオンの音楽が使われているのは驚いた。

 

以上!

 

松本人志と特撮テレビ番組の「25分」

何を書いたらいいのかわからないが、友人と約束したので、日々の雑感を書きためていくことにする。

 

移動中など、スマホでラジオの音源を聴く。

特によく聴くのは、松本人志がやっていた「放送室」。

私にとって松本人志は、小学生の頃からテレビで見続けてきた「ヒーロー」の一人で、1990年代半ばからの10年間くらいは絶頂期と言ってよく、口を開くたびに笑いが生まれていたように思う。いまは少し違う気がするが、TV出演をフォローしているわけではないのでわからない。

とにかく、一時期は天才と呼ばれ、実際その名にふさわしい活躍ぶりだった。あたりまえだが、生まれてから死ぬまでずっと天才であり続けるという人はいない。ある時期、ある瞬間に「天才」と言われるような輝きを見せることがあるのであって、その意味では、松本人志が天才だった時間は、長かったなあと感心する。

さて、ラジオ「放送室」に話を戻そう。

「放送室」を聴いていて、ああなるほど、と思うのは、松本人志と70年代日本のTV文化の関係だ。

謡曲やTVドラマについての言及が多いし、番組内で流れる音楽も、基本的に70年代のものだ。本人は「懐かしトーク」をしているのだろうが、そのトークから松本人志の発想の源泉を垣間見ることができて、おもしろい。

今回は特撮TV番組について、感想を書いてみよう。

「放送室」では、『ウルトラマン』『バロムワン』『マグマ大使』などの「特撮TV番組」がときおり話題にあがる。特に70年代初頭の特撮TV番組が多い。松本人志は1963年生まれだから、彼が小学生のころに見て、記憶に強く残っている番組なのだろう。

昔の特撮の設定がいかに「ユルい」くてチープか、それを突っ込んだり、実は深いテーマがあるのだと味わったり、敵怪獣の造形を褒めたりと、実に楽しそうに特撮について語っている。

そういわれてみると、私がこれまで楽しんできた「ダウンタウンのごっつええ感じ」におけるコント「アホアホマン」「ミラクルエース」、あるいは映画『大日本人』などは、70年代の特撮TV番組がフォーマットになっていることに気付く。

特撮TV番組は、だいたい25分くらいで一話が終わるわけだが、25分というのは面白い長さで、TVのコント番組のなかの一つとしては長すぎるし、映画にするには短すぎる。この「25分くらいの長さ」は、松本人志がもっとも輝きやすい長さなのかなと、勝手に思う。

90年代の「ごっつええ感じ」で、コント「トカゲのおっさん」が長すぎると話題になったことがあるが(そういえばこのコントも特撮っぽい)、特撮のフォーマットからすれば20分くらいは別に長くはない。

確認もせずに記憶だけで語っているが、松本が作成したコントのビデオ、「ビジュアルバム」シリーズに収録されたコントも、だいたい25分に収まる長さではなかったか。

そもそも、特撮TV番組(あるいは子供向けTVアニメ)の「30分枠」というのは、いつからどのように「30分」と決まったのか、わからないのだけれど、集中力の持続には、CMという途中休憩を含んだ「30分」がちょうどいい気もする。

 

まとまりがないし、まだ書きたいこともあるのだが、ホテルのチェックアウト時間が迫っているので、今日はここまで。