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映画メインで諸々の感想を

雷以外は素晴らしい脚本 『モンタナの目撃者』(2021年)78点

 

ポスターがホラーっぽい・・・・・・

テイラー・シェリダンが監督ということで期待して観た。
『ボーダーライン』『ウインド・リバー』などの佳作が、エンタメとしてよく整理されており、この人の名前をおぼえた。
「超有名人が出てるわけじゃないけど2時間以内でしっかり面白い映画」を撮らせたら抜群に上手いと思っていた(脚本だけの参加でも同じ)。

今回の『モンタナの目撃者』、従来と違うのは、超有名人を主役に置いている点。
でも、キャリアの絶頂を過ぎていると思うので、エンタメ系のアクション・サスペンスの主役としてはちょうどいい気もするのだった。
こういう俳優を上手く「リサイクル」して、これからも佳作をどんどん作って欲しい。『モンタナの目撃者』はそう思える佳作だ。

これまでのこの人の作品は、自然の描写にも特徴があった。大自然のなかに人間がいる・・・という絵をみせるのが上手で、その点も今回に共通している。

 

映画のイントロは「え? どういうこと」と思わせるところから始まってツカミはOK.
殺しや二人の顔も良い。
黒幕や父親から子どもに託される謎がわかりやすい「マクガフィン」だけど、ぐだぐだ説明されるよりはこの方が話が早くて良かった。
このあたりが脚本家として優れた点だと改めて感じる。

もう一つ、良い脚本だなあと感心させられたのは、追う者と追われる者を複数化している点。
シェリフとその妻をうまく脚本にかみ合わせて、殺し屋が二手に分かれる場面や、妻が馬で追いかける場面などは「ああ、オモロイ」と拍手したくなった。

ただ、雷の設定はやや安易にみえた。
監視塔の機器が落雷によって故障し、外界との連絡がとれなくなる・・・という設定はわかる。
ただ、これだけなら説得力に欠けると思ったのか、そのあと主人公と子どもが草原を駆け抜ける場面で、再び落雷が出て来る。
今度は「乗り越えるべき自然の障壁」として出て来るのだが、ちょっと無理があるかな・・・という感じ。

子役の演技も素晴らしい。
テイラー・シェリダン、もっともっと映画をつくってほしい。

久しぶりに出会えた、ひどい映画 『THE BATMAN-ザ・バットマン-』23点

DC映画『ザ・バットマン』新シリーズ“若き日のブルース・ウェイン”を描く、ロバート・パティンソン主演 - ファッションプレス

事前の評価も高そうだったし、「きっと面白いんだろうな」と思って見に行ったが、見事な駄作だった・・・・・・。

この作品を褒めてる人はちょっと信用できないかなあ・・・とまで思った。

 

脚本に問題があるのだろうが、とにかく冗長だった。

まず、話が散らかっている。

で、散らかってる話はどれもこれも既視感満載でかなりキツかったです。

たとえば、サイコパスの犯人と面会室で向き合う場面で、ガラスの向こうで笑う犯人、起こる主人公・・・こういうの、もう何回もみたので、はやく次の場面に行ってほしいなあと願うのだが、なかなか場面が終わらない。

次に、撮り方。

ダラダラダラダラ会話する場面では、もったいつけて顔を交互に映すだけ・・・ほんとにプロなのか。

撮り方が優れていれば、約三時間でも耐えられたと思うが、平凡な絵ヅラで、途中からは「いま何時かなあ」と気にしながら観ることになった。

最後に、主人公の人物設定。

一言でいうと、馬鹿にみえる。

父親を殺したのは誰か・・・という重要な問題も、ある人がAといえば信じ込み、すぐそのあとで別の人がBと言えばそれを信じる。あの場面、続けて編集すると主人公がただの馬鹿にしかみえないですね。

あと、主人公が独白でいちいち説明してくるのも、興ざめだった。

アクションも凡庸。あんなに眠いカーチェイスは逆にすごいし、最後の洪水の場面で上から落ちる前後も(くそダサいスローモーションだったが)まったくハラハラしなかった。

敵の魅力のなさは、あきらかに脚本・監督の狙いだろう。

人びとの「はく奪感」「不平等感」やそれを生む社会が悪の根源である・・・みたいなことなんだろうけど、それもよくある話だし、それで行くなら主人公がもう少しアイデンティティに悩んでほしい。リアリティを感じなかった。

今回の失敗を機に、もうしばらくバットマンはやめたらええと思った。

唯一の救いは、主演俳優がかっこよかったこと。

2022年度ワースト候補に出会ってしまった。

サクッと観れるB級ミステリとして作ればよかったのに。『ナイル殺人事件』68点

ナイル殺人事件』愛と嫉妬と欲望が渦巻く本予告&本ポスター解禁!|ナイル殺人事件|20世紀スタジオ公式

いいなと思ったのは、キャスティング。

映画に詳しいわけじゃないので、ケネス・ブラナー以外は全然知らなかった。

知らない俳優ばかりだけど、みんなちゃんと個性的で、みんないい意味で「フツー」。

これはミステリー映画にとっては重要なことで、キャストが有名すぎると謎解きの邪魔になる。

それでは華がないかもしれないが、今回はエジプトなので、ピラミッドを筆頭に絵の力はあった。そもそも、ケネス・ブラナーも地味と言えば地味だし。

 

どうかな・・・と思ったのは(原作は読んでいないから、わからないことも多いが)動機の弱さと、犯人が分かりやすすぎること。

明らかにオカシイ描写(船まで元婚約者が追いかけてきて、明らかにオカシイのに、それを積極的に追い出そうとはしない男とか)をみると、「あ、これは・・・」と思う。

で、そこから逆算したら、共犯者もこの人なんだろうな・・・と予想はついた。で、残念ながら予想通りの結末だった。

動機が弱いというのも、欠点だと思う。

このあたりはミステリの「古典」を、ある意味では忠実に映画化したがゆえの弱さなのかなと推測していたが、結構大胆に再解釈しているらしい。

どの部分が再解釈なのかは、やはり原作を読んでいないからわからんのだが・・・。

とにかく、もう少し、殺される側と殺す側の背景を書き込んでほしかった。

映画が選んだのは、犯人と被害者の背景ではなくて、ポワロの背景を書き込むことだった。

傷を負った復員兵としてのポワロが、最後は自らの過去と和解していた。その象徴としての「髭剃り」だったんだと理解した。

しかし、ここも実は疑問があって、今回のナイル川での殺人事件が、どのようにポワロの内面に関与したのか、やや不明確。それゆえ安易さを感じてしまった(どのように結びつくのか、ちゃんと描いてほしい。それがないと思わせぶりな、見せかけだけの「深さ」に留まる)。

それ以上に残念だったのは、エジプトが舞台である必然性が全然ないということ。

総じて、賞味期限切れの材料を現在映画化することの意義について、再考が必要だと思わせる「ビミョーな映画」だった。

興行的にも厳しいのではないか、ガラガラでした。

二時間でサクッと観るミステリとしては、ほんとうによくできていたけれど、わざわざ高い金を払って映画館で観る必要はないのかなという作品。

叙述トリック的な驚きがクセになる 『記憶の夜』85点

中学高校と電車通学だったので、ずいぶんと電車で本を読んだ。

朝の電車は子どもであっても座りたいものだと思うが、たいてい座れない。

座れないと眠れないし、つらいので、時間を忘れて夢中になれそうな本を選んでブックオフで買うということをしていた。

当時、駅前には紳士服青山を居抜いたブックオフがあったのだった。

で、夢中になれる本をどうやって選んでいたのかというと、文庫本の解説が頼りだった(高校生になると、『本の雑誌』を立ち読みするようになり、「頼り」が増えた)。

で、中学だったか高校だったかは覚えていないが、折原一のミステリー作品が、上記の「夢中になれる」という条件を満たしていた。

叙述トリックで知られる著者で、一作目(読んだのは『倒錯のロンド』だったはず)を読んでたいそう驚いたので、二作目からはトリックを見破ろうと思って読むようになった。

この「トリックを見破ろう」という読み方は、映画鑑賞にも引き継がれるようになり、だいたい誰もが行きつく以下のような推量をするようになった。それはつまり、意外な犯人と言われると、

・序盤に出て来る親しい友人か恋人(家族であることは稀)

・双子

・自分自身

を犯人候補に挙げてみるようになる。

トリックがわかることはまずないけれど、犯人は結構当たる(まあせいぜい5分の1くらいの確率だからあたるわな)。

 

前置きが長くなったが、ネットフリックスでみた『記憶の夜』が面白かった。

記憶の夜 - 映画情報・レビュー・評価・あらすじ・動画配信 | Filmarks映画

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2017年の映画だから、オススメなどには表示されない。

ミステリー・サスペンス系で、ドラマではない韓国映画をみたいなあと思って、探していると出てきたのだった。

これ、ほんとうによくできていましたよ。

当時は話題になったんでしょうか? 私の周囲ではこの作品に言及する人はいませんでした。きっと話題になったんだと思います(でも、監督のチャン・ハンジュンさんの続編がない・・・)。

冒頭から、チープで安っぽい演出が続くんですが、それがちゃんと伏線になってるんですよね。

まさかそんな展開とはなあ・・・!! と楽しく騙されました。

つまり、冒頭で書いた叙述トリックの驚きを、うまく取り込んでいるんですよ。これ以上言うといわゆるネタバレになりますので控えておきますが・・・

 

と、ここでテンションを戻して、顔の問題に触れたい。

これはしばしば耳にするが、韓国映画界には、顔が良い人が多い。

アップに耐える表情というか、映画的顔面というか、とにかく顔。イケメンとかじゃなくても、味のある顔。顔がすべてだと言いたくなるくらい、顔が違う。

日本のテレビドラマを見ている人は一人もいないはずだから、ここでは措くとして、日本映画も福田雄一作品(毒にも薬にもならないムロツヨシ大泉洋)と三谷幸喜作品(悲しい気持ちになるが、中井貴一は大好きですよ)以外は、「一生懸命作っているなあとすごいなあ」と裏方の努力に感心させられることが多い。

ただ、肝心の演者の顔に魅力が欠ける。

製作委員会方式と、芸能プロダクションの悪い面が、そういうところに出ているのかなと。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

エッセイ「葛西善蔵被害者の会」に向けてのメモ①

Wikipedia石坂洋次郎の項目を読んでいたら、「来歴・人物」の冒頭に、次のような記述があった。

弘前市立朝陽小学校、青森県弘前中学校(現在の青森県弘前高等学校)に学び、慶應義塾大学文学部を卒業。大学時代、心酔していた郷里の作家葛西善蔵を鎌倉建長寺の境内の寓居に訪ねるも、酒に酔った葛西から故郷の踊りを強要され、さらに相撲で捻じ伏せられた上、長刀を頭の上で振り回されて幻滅と困惑を感じる。」

 

これはぜひ、石坂の原文にあたりたいと思うが、以下備忘録として書いておく。

とにかく若き日の石坂洋次郎が不憫でならないのだが、立ち止まってそのときの状況を想像してみると、尋常ではないすごみを感じてしまう。

憧れの作家をたずねたら、同郷のよしみでというのことなのか、「故郷の踊りを強要され」た。ここまでは、理解できないこともない。葛西の望郷の念の発露・・・と好意的にも判断できる。強要かどうかは「志願か強制か」みたいなもので、当事者によって評価が異なる微妙な問題だ。酒席での娯楽が限られていた当時、踊りという選択肢もあったのかもしれない。

「ん?」となるのは「相撲でねじ伏せられた」との記述である。これも娯楽が限られていた・・・と言えなくはないが、葛西は石坂よりも一回り以上も年上である。おそらく当時は30代なかばから後半。酔って「相撲をとろう」というのは、まあ愛嬌の範疇だが、それにしたって「ねじ伏せ」なくてもよかろうと思う。石坂はこの段階で「あれ、この人酒乱かも・・・」と気が付くべきだった。相撲を教えてくださりありがとうございましたとお礼して帰るべきだった。

最後の「長刀を頭の上で振り回されて」という段になると、これはもう常軌を逸しているのである。というか、相撲をとったあと、この二人に何があったのか。なぜ家になぎなたがあるのか。なぜ「頭の上で振り回」す必要があるのか・・・疑問が芋づる式につながって、感興をおぼえるほどだ。

 

と、このあたりまで考えて、このメモを文字として残しておく必要を感じた。

こういう変な話は「おもしろい」から、いろいろ集めてまとめたら、良いヒマつぶしになるだろうと思ったからだ。

だから、これから暇なときは、葛西善蔵の被害に遭われた方々の回想を集めて、整理していきたいと思う。結果的に、葛西善蔵のかなしみや苦悩の深さについても、浮き彫りになる(かもしれない)。すでに同種のアンソロジーなどがあるかもしれない。

また一つ、興味が増えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ジャンル分けできない映画で、とにかくオモロイ。 『パラサイト 半地下の家族』 95点

 

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ケンローチに続いてわかりやすく格差社会を背景にしている。
ただ、『パラサイト』のほうがブラックで、笑えて、しかし怖い。
ケヴィン・スペイシーが出ていた『アメリカン・ビューティー』(1999)という作品を思いだしたが、それよりもずっと胸に刺さった。

 

低地に住んでいるその日暮らしの底辺層の家族が、高台に住む超金持ちの家族に入り込み、文字通り寄生していくのが前半。
前半は、やや長く感じたが、それでもコメディタッチが上手くいっていて、楽しくみれた。
後半は、ホラー・サスペンス的展開で、キツい暴力場面もある。
ソン・ガンホが「一番いい計画は、計画を立てないことだ。計画を立てても、その通りにいったためしがない」ということを述べるが、悲しい言葉だった。そのとき、ソン・ガンホは(就寝前ということもあり)右手で目元を覆っているため、彼の表情が見えない。
どこまで本気で言っているのか、わからない。冗談ともとれる余地を残しているのかどうか。それとも絶望しかないのか。
どんな表情をしているのか、見せない演出が冴えた場面だったと思う。

 

秀逸だと思ったのは、二点、
第一に、空間の捉え方、見せ方。
分かりやすく「上下」の空間的な格差を、登場人物たちの属性と結びつけて描いていた。
大雨による洪水の場面。諦めてタバコを吸う妹の表情が良い。
最後の方では、山に登って、高級住宅を眺める場面があるけれど、あそこも印象に残った。
格差を空間の「上下」「前後」で表すのは、ポンジュノならば『スノーピアサー』があり、バラードの『ハイ・ライズ』が思い浮かぶ。

あとは宮崎駿の『千と千尋』もそうか。
しかし、あんなに変な構造の家は、黒沢清の『クリーピー』以来。

 

第二に、においの描写。
金持ち夫婦の「底辺層は地下鉄みたいな、切り干し大根みたいな臭いがする」という描写が積み重なるのだが、胸が痛い。
臭いと言われるのは、ほんとうに辛いことだろう(自分も気をつけないといけない)。

金持ちコミュニティの描き方は、監督の一種の悪意を感じるほどに、観ていて腹立たしく、同時に薄っぺらくて笑えた。
だから、終盤の誕生会の場面は、映画『ジョーカー』的な「快感」と「絶望」とが爆発して、見事だった。

この一年ほど、話題になる映画には、必ずといっていいほど、格差が描かれている。
日本であれば震災以後、数年間は格差社会のことを忘れがちだったが、また震災前にもどって「格差」「ワーキングプア」「非正規労働」のイメージが、強まってきたように感じる。
イギリスの映画にも、アメリカの映画にも、韓国の映画にも、共通している。
それが資本主義の現在地であり、映画の観客のほとんどは(自分も含めて)映画館を出れば、好むと好まざるとにかかわらず、また競争の場に戻る。

あと、家政婦さんの「キム・ジョンウン」ネタが良いですね。

労働と生きがい、そしてお金について考えざるを得ない。『家族を想うとき』 99点

 

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舞台はイギリス北東部のニューカッスル
かつては炭鉱の街として知られたが、いまではサッカー好きの人が知っているくらいだろうか。
この映画は、その街に住むある家族の物語だ。

結論から言うと、早くも2020年度ベストの作品に出会った。
そう言いたいくらい、素晴らしい作品。
やや長いが、自分なりにあらすじを書いてみました。

背景にあるのは、2007年に起こったノーザン・ロックというニューカッスルの銀行の経営危機だ。アメリカのサブプライムローン問題によって、ノーザン・ロック銀行は経営危機に陥った。
これにより、住宅ローンが流れ、主人公のリッキーとその家族は住宅を失い、さらにリッキーは仕事を失った。
苦境に陥ったリッキーは、稼げる仕事を探す。
そして、フランチャイズ契約の宅配ドライバーとして独立する。
うるさい上司に命令されることもなく、自分の腕次第では高い報酬も得ることができる「良い仕事」に思えた(ちなみに、インターネットを通じて単発の仕事を受注する働き方や、それによって成り立つ経済形態のことをギグエコノミーと呼ぶらしい。UBERみたいなものか)。

やや話が逸れるが、労働者からみれば、ギグエコノミーはキツいことが多い。

まず、ほとんど歩合制。これは、やる気と時間がある人には良いのかもしれないが、怪我や病気になったときの補償はない。

雇用者は、労働者を独立した自営業者として契約するので、車代・ガソリン代は労働者の自己負担。社会保障費も当然自己負担となる。雇用者にとってはたいへん「お得」、労働者にとっては、弱肉強食の職場と言える。

 

さて、ぺこぱのように時を戻そう。

リッキーは職場で次のような説明を受ける。
本部の車を借りて宅配業務をすれば、毎日本部にレンタル料を取られる。したがって、宅配用の車を買った方が合理的だ。ローンでも良いから買うべきだと言われる。
しかし、リッキーには頭金の1000ポンドがない。
結局、妻のアビーの車を売ることで、なんとか自分の車を手に入れるが、妻のアビーは困惑する。
なぜなら、アビーの仕事には車が必要だからだ。
アビーの仕事はパートタイムの介護福祉士。老人や障害者を戸別訪問して、食事から排泄まで、身の回りの世話をする仕事だ。
戸別訪問には、車が必要なのだが、リッキーの車のために仕方なく、自分の車を手放す。移動はバスに頼ることになる。
でも、アビーが契約している介護福祉士のエージェントは、移動時間を「休憩時間」としてカウントする。移動中は給料がでないのだ。
つまり、アビーが車を手放すことは、同じ給料に対する拘束時間が延びることを意味していた。

こうして、リッキーとアビーは仕事に追われる日々を送る。
リッキーは一日14時間の労働を週に6日。
アビーは、バス停から子どもたちに電話をして、なんとか家族のコミュニケーションをとろうとする。家族の時間が削られていく。
リビングのソファで疲れ切って寝てしまった二人を、娘が世話してやる場面があったが、その場面がこの家族の状況を端的に示していた。

働きまくるリッキーだったが、息子のセブがケンカをして、学校から呼び出される。
しかし、リッキーは仕事を離れることができない。仕事を離れると罰金100ポンドを支払わなければならないからだ。
結局、妻のアビーだけが学校に行って停学処分の説明を受ける。
帰宅したリッキーは、学校の説明に納得がいかず、アビーを問いただすが、アビーからしてみれば「私に言われても困る。それなら学校に来てくれれば良かったのに」となる。

さらに不幸は続いて、リッキーは配達中に暴漢に襲われて積み荷を奪われ、高価なGPS機能付きの集荷スキャンを壊される。リッキー自身も怪我をして病院で検査を受けていると、本部から携帯電話に電話がかかってくる。
「代わりのドライバーを探さないと制裁金100ポンド。積み荷のなかにあったパスポート2冊の補償金が、1冊あたり500ポンド」
その電話に今度はアビーが激怒する。。。。
翌朝、それでも仕事に行こうとするリッキーを、家族は制止する。片眼が腫れている状態で、レントゲンの結果も出ていない。仕事どころではないからだ。
しかし、リッキーは家族を振り切って、車を走らせる。狂気じみたリッキーの横顔を映して、映画は終わる。

家族を楽にするための仕事が、家族のつながりを不安定にし、ひいては自分自身の人間性をむしばんでいくさまが、緻密に描かれていた。
わたしは、ダニエル・ブレイク』の姉妹編とも言うべき傑作である。

忘れがたいのは、次の二つの場面。
過酷な宅配の仕事が、楽しそうに描かれる場面がある。リッキーが車の助手席に娘を乗せて働く一日を映した場面だ。
仕事の内容を娘に説明しながら運転したり、荷物を手渡す時に客から娘がチップをもらったり、娘が不在票の記入を手伝ったり・・・
辛い仕事が、楽しそうに描かれていて、観客はホッとする。
しかし、後日、本部に行くと呼び止められる(以下会話を記憶で再現)。
「助手席に誰か乗せていたか?」
「俺の車だろ?(独立しているという契約じゃないか、娘を乗せてなにがわるい)」
「客からのクレームだよ」
ということで、楽しい仕事の記憶も、客と雇用主によって、後味の悪いものになっていまう。これが一つ目。

もう一つは、アビーが介護先で出会う年配の女性が、思い出話をする場面。
組合によるストライキで労働者が集まったときのこと。労働者たちのために臨時のcafeを開いたら、500人もやってきたと、懐かしそうに、どこか誇らしげに語る姿が良かった。

ぼくはamazonのヘビーユーザーだが、こうした働き方を人に押しつけることで得られる「快適さ」とは何なのか。こうした経済がいつまでも続くのか。疑問に思った。
疑問に思うと同時に、続くだろう、という予感も持った。
ネガティブな予測をしてしまう原因の一つに(あくまで一つ)、ギグエコノミーと労働組合は相性が悪いように思えてしまう、ということがある。
ギグエコノミーに集う労働者の働き方や生き方のモデルと、労働組合てのは、そもそも相容れない部分が多いのではないか。

ギグエコノミーに集う労働者は、「労働組合とか無駄」と切り捨てそうで、なんか「自己責任論」を悪い意味で内面化しているような自称「意識高い系」なんじゃないかと邪推する(邪推であってほしいです)。

あるいは、労働者同士がつながろうにも、そもそもそんな時間や労力がない、というのも考えられる。もちろん、そんな環境でも、人間同士のポジティブなつながりは必ず生まれるはずだけれど。

じゃあ、どうしたらよいのか。
地道な活動をしている人びとには敬意しかないが、それと同時に人びとの価値観を変えるための手がかりを求めたくなる。
労働者を搾取し尽くそうという雇用者側が「ダサい」「終わってる」と思えるような価値観。
ケン・ローチは、映画の中で一言もそんなことを言っていないけれど、観客の一人としては上記のようなことをウダウダと考えた。

 

あと、邦題をつける人、ほんとセンスないな・・・

原題のニュアンスを完全に消している・・・

もう一つ、パンフレットに「グラフィティ」が「落書き」と書いてあった。ケンローチは「落書き」とは呼ばないんじゃないかな。