円環の言葉と時間 『メッセージ』66点

 最近なにかと忙しく、映画館に行く気になれなかった。

しかし、気分転換には映画が一番。携帯も切るし、余計なことは考えなくていい。


ということで、黒くて長くてデカい物体が浮いてるというヴィジュアルが強烈な『メッセージ』を観てきた(現代のアライバルの方が良いとおもうが)。
あと、こういう「未知との遭遇」系の映画は、宇宙人の見た目も気になる。

結論から言うと、ちょい既視感があった。
円環構造の物語(これと宇宙人の表意文字がリンクしている)。
頭のいいデキる女性言語学者が頑張って「メッセージ」を解読して世界の危機を救うという物語。
宇宙人のタコ的ビジュアル。
この辺は、またか、という感じがどうしてもしますな。

あ、面白いなあという描写もあった。
時制のない宇宙人の言葉を学ぶ過程で、諸人口は未来がチラホラ見えるようになる。
その未来の見え方が、「フラッシュバック」っぽくて、過去の話に見えてしまう。
そのあたりの演出は上手で、冒頭のシークエンスが上手に活かされていた。

ワンアイデアで乗り切る小品としてパッケージされていたら、もっと面白く観れたかもしれないが、宣伝でハードルが上がり過ぎたかもしれない。

あと「あ、これは意外と省エネやな。金かかってないな」と何度か思った。
ということで、66点。

野心作だが、やや冗長、とても散漫 『バンコクナイツ』61点


富田監督の『国道20号線』は忘れがたい名作。
その後の『サウダーヂ』は見逃してしまい、残念な思いをしたので、今回の『バンコクナイツ』は期待して行った。
勝手に期待していただけなのだが、ちょっとキツかった・・・

娼婦・貧困・植民地・ベトナム戦争・クズの日本人という要素が詰め込まれているが、なかなか話が進んでいく感じがしないのだ。

もちろん、名作『国道20号線』だって、話はあってないようなものだと思うが、『バンコクナイツ』の場合は、(感覚的にいうと)「画が物語のドライブを求めているのに、製作者たちがそれを求めていない」のだろう。


では、物語のドライブを求める画、とはどのような画なのか?
たとえば、夜のバンコクの高架道路を、娼婦ラックが乗ったトゥクトゥクが疾走する場面。
ラックの故郷で、主人公たちが夜の町をバイクで移動する場面。
バックパッカーたちが戦争の跡が残る大地を歩く姿を空撮で撮る場面。
タイに遊びに来たクズの日本人たちも、貧困にあえぐ村からバンコクに身体を売りにきた女性たちも移動している。
こうした印象的な「移動」の場面が多く、「ああ、いい映像だなあ」と感じるのに、物語は非常に散漫で、退屈だった。
高いハードルに挑もうとしている気概はよく伝わってきたし、とても貴重な試みだと思うのだけれど、失敗作だ。

それでも、ものすごく良かったのは、劇中に流れる音楽だ。
田舎町のバンドが演奏していた曲は、歌詞が字幕で流れて、グッと来た。
ラックの田舎で、宗教者のおばはんが語りながら歌うような場面があったが、ああいった場面もドキュメンタリー的なリアリティが溢れていて、忘れがたい。

あと、ナントカとかいう名前の伝説上の龍が川に現れる場面。
そっけなさすぎる。贅沢な使い方と言えるが、やはりもったいない。

 

ちなみに、キネマ旬報の2017年2月下旬号のレビューを見たら、また中条とかいう人がテキトーな褒め方をしていて、ウンザリ。褒めるのも雑誌の重要な仕事だと思うが、とってつけたような褒め方。手抜き。
でも、五所純子さんの評論には、我が意を得たり!特に、最後の方のラックのビンタについてのコメントはほんとその通り。この人の文章をもっと読みたいと思った。

 

画面がゴチャゴチャしてて、うるさい 『ゴーストインザシェル』43点

原作マンガは読んでいないが、押井守のアニメーションは観たことがある(記憶はあやふやだけど)。
アニメーションに忠実な実写映画だと思った。
原作マンガ(アニメーション)を実写化すると、ファンを含めて「これは違う!」というような異論が噴出するが、この作品はどうだろう。忠実に映像化しすぎて、なんか変なところもあった。
全体的に、「画面の座りが悪い」というか、絵として定まっていないという感じがするのだ。

香港を思わせるネオン街、ホログラムの巨大広告や街にたむろするサイボーグたち。
未来の猥雑さを一生懸命細かく作ったんだろうけれど、作り込み過ぎ!
観客としては視点が散って集中できない。
他方で、アクションシーンの作り込みは全然たいしたことなくて、派手な音でごまかされた感じがする。
ゴチャゴチャしてて、何がどうなってるのかよくわからない。
最後のバトルシーンでは、主人公の動きがあきらかにカクカクしてる瞬間があった。

スカーレット・ヨハンソンの顔と身体、動きにも違和感があった。彼女は人間離れしたものを演じることが多いようで、それもあってのキャスティングなのだろうが、動きが変だ。脳以外は機械なわけだから、違和感があって当然なのだし、私が「違和感」を持ったのも織り込み済で、あれはすべて演出なのかもしれないけれど、やはり気になるものは気になる。

あの肌色のボディスーツも、なんかダサい。アニメの方がかっこよかったかな。

「過去の記憶(何をしてきたか)じゃなくて、現在(いま何をするか)が、あなたを決めるのよ!(だからあなたは人間なのよ、大丈夫なのよ!)」みたいなメッセージが何回か繰り返される。
それは確かにそうだが、アイデンティティは過去と現在の統一性だと思うので、「何をするのかがあなたを決めるの」と言われても、それは筋違いではないか。もっとも、桃井かおりと「再会」して、記憶の手がかりを得るのだが。しかし、明らかに中国だとわかるハチの巣のようなマンションの一室に、日本のひな人形などが飾ってあると、繰り返しになるが、違和感を禁じ得ない。
話を戻すと、過去にとらわれることはない!というメッセージは、アジアの一都市を舞台にしているが無国籍性の強いこの映画のなかでは、「アメリカ性」が突出している気もした。
これから「何か」になっていこう!というようなbecomingな心性が、よくもわるくも強い。 

たけしの活舌が悪すぎるので-10点

桃井かおりが意外だったので+5点

そもそも巨大なゴリラという発想に乗れない 『キング・コング 髑髏島の巨神』51点


ゴジラ(2014年のほう)』が好きだったので、同じシリーズときいて楽しみにしていたが、フツー。
同じ監督だと思ってたら、違ったし。

あらためて2014年の『ゴジラ』の面白さに気づかされた。
そもそも、ゴジラは作品ごとにゴジラの形状が大きく変わるので、「今回のゴジラはどんなゴジラだろう」という楽しみがあるが、キング・コングの場合、それが皆無だとは言わないにしても、やはり薄い。ゴリラだし。

で、この映画はというと、かなり早い段階でコングが出てきて、「お、これは面白いかも」と期待するも、そこから話は髑髏島にいくパーティの紹介になる。ヒトクセもフタクセもありそうなメンバーを集める場面は、こういう映画の見どころだと思うが、なぜだろう、ツマラナイ。


あっ、と思ったのは、ブラボー作戦に代表される南太平洋でのアメリカによる核実験が、実は巨大生物を倒すためだったのかもしれない、という解釈が示されていたこと。これは、2014年のゴジラと同じだと思った。
時代設定は、ベトナム戦争終結(アメリカからみれば敗北)直後。
だからなのか、髑髏島でアメリカのヘリがバタバタとコングにやられる場面は、「アメリカへの祟り」を思わせて、ウーンと考え込んだ。なぜかというと、どうせベトナム戦争を意識するなら、もっともっと過酷な「行軍」を描くべきだと思うのに、本作はどこか楽しいからだ。いや、キングコングだし!エンタメだし!と開きなおり切れていないように思う。

それでも、密林が焼けていく緑と赤のコントラストや印象的な夕日など、ベトナム戦争映画で観たイメージのremix感は良い。ニクソンの人形の使い方も笑った。

 

ただ、非常に散漫な脚本が、どうしても気になる。

せっかくの巨大生物たちがあまり行かされておらず、お化け屋敷的な興味しか引かない。ボス的な地底のトカゲも、エヴァの使徒にしか見えず、ビジュアル的な面白味にかけた。
白鯨のエイハブ船長よろしく、異常にコングにこだわるサミュエル・L・ジャクソンの狂気も、おもしろいが凄みが出ていないように思った。

気になるといえば、中国人キャスト。
レジェンダリーは中国資本の傘下にあるからか、どう考えても物語に必要ない女性キャストが配置されている。
ああいう使い方は、俳優にも失礼だし、印象も悪いから逆効果だと思った。
とはいうものの、たとえばハリウッドの大作(?)に日本人キャストが起用されれば、日本のメディアはほぼ間違いなく大きく報じるし、それによる宣伝効果もあるだろうから、経営側としては必要なのかもしれない。商売だからなあ。

そういえば、残留日本兵「イカリ・グンペイ」なる人物と米兵との友情という要素も、「これ必要?」って感じがした。監督が日本のサブカル好きらしいので、監督なりの日本文化への敬意だったのだろうか?

とにかく、肝心のキング・コングに魅力がなかったのが残念。
ゴジラに較べるとコミュニケーション可能な感じがするので、味方っぽくて怖くないのだ。

忘れがたいのは、米兵の一人が爆薬を持って怪物と心中を図るシーンの、無慈悲っぷり。
ああいうのがもっと続かないと、観客が登場人物たちの絶望感を追体験できないので、悪い意味で「安心して」観てしまう。

 

女が男をボコるシーンがもっと見たかった 『パッセンジャー』56点

宣伝で観たときは、宇宙船のなかで二人だけが目覚めてフォーリンラブだと思っていた。
そういうのSFでありがちだよね~。藤子・F・不二雄にあったような気がする~。
とか思ってたら、全然違った。

クリス・プラットが、ジェニファー・ローレンズを起こすかどうかで悩む悩む。どんどん髭がボーボーになるクリス・プラットは、無人島に一人のこされたのび太を思わせる。
起こした後、しれっとした顔で交流を深める感じも面白かった。
あと、勝ち気で積極的なジェニファー・ローレンスに笑った。

で、蜜月は、バーテンが口を滑らせて、破綻。
ジェニファー・ローセンスの怒りはもっともで、夜クリス・プラットの寝込んでいるのを見計らって襲撃する場面が、僕としてはクライマックスだった。
その後は、危機を乗り越えて結ばれる、みたいなフツーの映画になってしまう。どうせなら、そこから男女が謀略を尽くして戦うような映画を観たかった。

と、ないものねだりをしたが、全体としては楽しんだ。
SF映画は「これまで見たことない映像」を観るのが楽しいが、それは「無重力のときにプールの水でできた水球でおぼれかける」という場面以外に、あまりなかったのは残念。

 

短編小説のマスターピースのよう 『ムーンライト』83点

トーリーを要約しても、ほとんど意味がない映画だと思う。

「黒人社会における同性愛を描いた青春純愛映画」としか言いようがないが、そうまとめたところで、この映画の良さは伝わらない。

強度のある物語構造だから、俳優たちが展開する細かい表情やしぐさを存分に堪能することができた。
脚本、とくにセリフが素晴らしかった。
最後の最後にシャロンがいう言葉も良かったが、忘れがたいのは、第二章でシャロンとケヴィンが浜辺で語り合う場面。
ここでのケヴィンのセリフがとても良かった。10代のヤンチャな若者が、そんな抒情的なことを言うだろうかという疑問がわいたが、帰宅後ネットで調べて納得した。この映画、原作が戯曲なのだそうだ。

「ああ、このときに本があれば、もう少し救われたのに!」と、本のことを考えた場面があり、そもそも映画で本のことを考えることが稀なので、新鮮だった。
それは、第二章で、母親(麻薬中毒)が客をとっているから家に帰れず、ただ無為に電車に乗るシャロンを移す場面だ。
シャロン! 学校の図書館で本を二・三冊借りてカバンに入れてくれ」
と祈るように観ていた。
そこで本を読んでも、問題の根本的な解決にはならないが、問題の受け止め方が少しは変わるかもしれないから。

ただ、音楽の歌詞で説明させる方法は、やりすぎかと思った。
アレサ・フランクリンの「one step ahead」が二回流れるが、第三章で大人になったシャロンがケヴィンに会いにいくときに流れる「one step ahead」は、なんだか説明しすぎな気がした。
その後、ケヴィンがジュークボックスでかける曲も、笑いそうになった。
しかし、そこにケヴィンの切実さが込められているのは明白で、二人のシリアスな視線からはギャップがありすぎるポピュラー音楽の選択は、製作者たちが悩んで辿り着いた結果なのだろう。

忘れがたい映画になった。

制度はどこまで人を管理するのか 『わたしは、ダニエル・ブレイク』87点

大工の仕事を長年続けてきたダニエルは、心臓発作を起こし、医者から仕事を止められている。

ある日、ダニエルは雇用支援手当の継続のため、電話で審査を受けるが、結果は「就労可能、手当打ち切り」。
今度は、「職業安定所」に求職者手当の申請に行く。
しかし、求職者手当を受けるには、求職活動を続けなければならないが、そもそもダニエルは医者から働くことを止められているのだ。

制度(あるいは制度ではなく職員の対応の問題なのか?)の矛盾に直面する様子を克明に描くこの映画。
ダニエルと周囲の人びととの交流がいい。

たとえばケイティという、あるシングルマザー。
子どもは二人。姉と弟で、二人は父親が違う。
ロンドンでは、三人でホームレス用待避所に暮らしていたが、ストレスが溜まったのか(あるいは「自閉症」なのか)待避所では暮らすのは子どもによくないと判断した母親は、国からのニューカッスルの古い民家をあてがわれる(なぜロンドンからニューカッスルまで移動させられるのか、そのあたりはイギリスの制度がよくわからない)。
彼女は、職業安定所の面接の時間に遅れてしまい、それが理由で手当の申請手続きを進めることができない。
本当に困っているのに、一律で機械的のシステムが、遅刻した彼女を拒絶する。
見るに見かねたダニエルは、順番待ちの人びとの前で「彼女を先に相談ブースに行かせてやろう」と語りかけ、人びとも頷くのだが、係員たちはそれを受け付けない。「例外は認められない」のだ。
ここから、ダニエルと家族の交流が始まる。

制度が救えない人びとの存在に焦点を当てた作品だ。
映画は「このままでは駄目だ。社会保障制度の改革が必要だ」という明確なメッセージを発している。
同時に、個人が一人でできる異議申し立てにも限界があるということも、辛いほどに克明に描いている。
それでも、ダニエルとシングルマザーと、その子どもたち(さらに映画が切り取ることができない様々な「弱者」たち)が、ただちに不幸だということにはならない。

深夜にダニエルが行う木工細工。
それを受け取った子どもの表情。
ダニエルがシングルマザーに教えるローソクを使った簡易な暖房器具。
ダニエルを心配して訪ねてくる子ども。
隣室に住む「チャイナ」というあだ名の黒人青年との交流。
そうした日常の細部に生き甲斐が宿っていることを、丁寧に描いている。

先進国とよばれることもある各国は、この30年ほど、福祉を切り詰めてきた。
日本でも数年前に芸能人の家族の生活保護の不正受給が話題になり、芸能人が謝罪会見を行うということがあった。
また、生活保護受給者への偏見も根強い。社会的弱者に対して「本人の努力が足りない」「自業自得」といった一種の自己責任論が、ある程度社会に浸透してしまったからだろう。
このような社会で、制度改革を求める声を上げるのには勇気がいることだ。
自己責任論者に認識を改めてもらうことも難しい(本人が「弱者」になる可能性は、だれもがあるのに)。
そうした困難がある上で、それでもなお、この映画は、観る者に「行動せよ」と呼びかけている。
かつて「行動」という言葉が、輝いていた時代があった。「管理社会」が危惧された時代があった。

でも、いまやそんなことを言えば白い目で見られかねない。
なぜこんなことになってしまったのか、考えたい。