ウスラデブ大百科

映画メインで諸々の感想を

知ってるものを観たいわけじゃない 『レディ・プレイヤー』58点

 

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スピルバーグのエンターテイメントって、何を観ても「観たことある感」がある。それはたぶん、エンターテイメント映画の文法の一つをつくったスピルバーグの手法がすごすぎて、その後のスタンダードになったからだろう。

やっぱりスピルバーグはすごい・・・でも、ものたりない。

で、観たことをすっかり忘れていた『レディ・プレイヤー』。
忘れていたくらいなので、特に感想はない。

スピルバーグらしい配慮の行き届いた人物設定と、基本誰も傷つかないストーリーで、安心してみることができる。
よくできているが、コンスタントに平均点+10点を取る秀才学生のようなツマラナサを感じる。
「そんなことして楽しい?」とまでは言えない程度に優秀だが、突き抜けるものはない。
確かにすごいし、僕にはできないけれど、物足りなさは否めない。

秀才と言いながら点数が低い理由は、有名キャラの寄せ集め感が嫌味だったからだ。
アキラのバイク、キングコングハローキティガンダムアイアン・ジャイアントストリートファイターなどなどがあたりまえのように登場して、それを見る嬉しさは間違いなくある。
でも、ぼくは「知っているものを観に行いきたい」というわけじゃない。
たとえそれがキャラクターであっても、シリーズ1作目の場合は、少しでも観たことないものを多く観たいなあ。
保守的なんでしょうかね?

 

 

エア連載 「俺の折々の音」~その1

七年くらい続けてきた新聞購読を辞めようかと考えているが、「折々のことば」は好きだ。もちろん「折々のうた」も好きだった。
心のなかの最もミーハーな部分が、「おいどんも『折々』したいでゴワス」とうるさいので、素直にしたがうことにした。

いいじゃないか別に、だれに迷惑をかけるわけでもないし!!!

と、まずは軽く逆ギレしたところで、内容よりもタイトルの悩みに直面した。
「折々の○○」というタイトルにして、鷲田先生のは病気か脱税的不祥事か何かが原因でもう終わったということにしてしまおう。だから続編が僕に回ってきた、という設定が良いだろう。

ここまでは、わりとすぐに決まった。

では「折々」の「何」にすればよいのか? 

「折々」の「何」なのか??

短い脳内会議の結果、「端的な言葉で文化に関わること」のなかから、消去法で「音」が残った。

アルファベットの「О(オー)」を連打する感じが気持ちよく、一人でご満悦の賢者モード。音楽はたいして詳しくないが、「О」の連打の快感の前では、それは些細なこと。
こういうものは、「見る前に飛べ」、「石の上にも三年」、そして「中身より外見」なのだ!

いや、待てよ・・・「折々の音」だけでは、なんだかマジっぽさがあって、居心地が悪くないか。
脳内を「ダダ漏れ」させることで精神衛生を保つことを意図して始めたわけだから、居心地の良さは譲れない。
居心地の良さのためには、ある程度のバカっぽさが必要だ。「勝手にやってます、テヘッ」という雰囲気も欲しい。

そう考えて、「俺の」か「俺も」を頭につけることにした。

かくして
「俺の折々の音」

「俺も折々の音」
の二択が残ることになる。
いわば、いきなり決勝戦である。

これは甲乙つけがたい。
「俺の」は、礼儀正しく、静かな優等生タイプだ。ほんとうは「僕の」と言いたいけれど、少しバンカラを気取って「俺」を使っているような、端正な若さがあるように思う。俺も昔はそういう時代があったよ・・・という共感を得られるかもしれないが、できればもう少しふざけたい。

他方、「俺も」はどうか。
「俺も折々の音」には、「どうせ二番煎じですよ、ええそうですよ」というモノマネタレント的なところがある。
「俺も」には、セロハンテープを貼って研ナオコのモノマネをしていた清水アキラに感じる哀しさが漂っているのだ。
ここで清水アキラ論、いや「モノマネ四天王」なる、日本史上最も存在意義のない「四天王」を論じたいところだが、それは次回以降に回そう。
司会の清水アキラブックオフの関係や、ヘッドホンをちゃんと付けずに「手で持って片耳にあてて」聴いていた野口五郎についても触れたいが、それをやればナンシー関っぽくなるだけなので、泣く泣く今回は割愛(たぶん一生書かないけど)。

話を戻そう。
「俺の」か「俺も」か・・・それが問題なんだ。
歩きながら、電車のなかで、そして仕事をしながら、考えに考えた。
そして、僕は、ひとりで、たったひとりで、「俺の」を選んだんだ……。

 

さて、「俺の折々の音」は、当然ながら音楽を取り扱うが、実際は歌詞に触れることが多くなるだろう。
だから正確には「俺の折々のことば」なのだが、それじゃあほら、鷲田先生の丸パクリじゃないですか。
以上のような経緯で、タイトルだけは決めたが、いろいろ忙しいし、きっと何も書かないと思う。
でも、気分転換に書くかもしれない。
第一回は、やっぱり宇多田ヒカル甲本ヒロトか、中島みゆき、がいいよね?

あ、でもやっぱ「俺も」のほうがいいかな。ま、どうでもいいか、どうせエア連載だし!

 

こうして、また誰も読まない文字データが、ネット上に増えた。

私立バーフバリ大学 『バーフバリ 王の凱旋』67点

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話題になっていた『バーフバリ』を観たが、長時間のうち、心が動いたのはダンス&音楽のシーンくらいで、あとは動かざること山のごとし。
山のフドウになって、涙目の子どもたちを抱きしめたい気持ちになった。

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これなら別に漫画で十分という感想。ぎくしゃくしたCGも、ゲームみたいだったなあ。
ただ、戦いの場面はありえなさは文句なく楽しめた。

あとは何を観たか、観るたびに忘れてしまうので、思い出したらまた書こう。

話は変わるが、電車に乗ってると大学の広告をよく目にする。
おしゃれな感じを演出して学生や教員のイケてる写真を使ったり、取り組みを紹介したり、漫画をつかったりといろんな工夫が面白いと言えば面白い。
週刊誌の見出しを模した近大の吊り広告も、つい読んでしまう。
各私立大学は教育ビジネスの一環として、広報戦略に力を注いでいることがよくわかる。
少子化や大学の淘汰が言われるなかで、受験生獲得にむけて頑張っているなあと、しみじみした気持ちになる。

こうした流れのなかで、多くの大学は「学生や受験生に好印象をもってもらえるキャンパスづくり」に心を砕いているようだ。
関東ならば都心回帰が進んでいるが、そうした立地だけではなく、具体的な空間がどんどんオシャレになっていく。
統一的イメージで学舎を作り、図書館もオシャレに改装する。
アクティブラーニングということで、学生たちが楽しんで議論できる空間をつくり、自習室も充実している。そういう場所は、たいてい透明な壁とホワイトボードの壁になっていて、大学のパンフレットなどで使われる。
あるいは、留学生との交流や、外国人教員との交流も、パンフレットで多用される「コンテンツ」だ。
なんだか、「学問テーマパーク」という感じがして、個人的にはビミョーな感じがする。
そこでは「何が学べるか」も、アトラクションみたいでなんだかなあ。
大学と広報って、相性が悪いと思うけれど・・・。なぜなら、大学で「得」することというのは、テーマパークのように即自的に表れるものではないから。学生は「お客様」じゃないから。
ということで、文字だけの「募集要項」があればパンフレットとかいらないんじゃないですかね。

話はかわるが、親が安心してお金を出してくれるような、クリーンで安心な大学空間を演出するのは大変だろうなと同情する。
形から入るのはよいが、そんなことに金を使うなら、常勤・非常勤をとわず教師を増やして、もう少し少人数制の授業を増やしてはどうかと思うが、結局それは「お金」の話になってしまい、たいていは難しいのだろうと想像する。

なぜいきなりこんなことを書いたのかというと、簡単な話で、観た映画を思い出せないからだった・・・
バーフバリみたいなヒーローがやってきて、テーマパーク大学を変な攻撃法でむちゃくちゃにしてくれる映画があったらいいなあ。あるいは、バーフバリ大学にして、一日二回、全員で踊る時間をつくればどうでしょうか? 授業をミュージカルでするとか。
こういうときにバーフバリを思い出すんだから、記憶に残る良い映画だったということかもしれない。

『アンロック/陰謀のコード』 37点

 

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どこかでだれかが褒めているのを読んだので気になっていた。
そろそろ公開が終わりそうなので、レイトショーにて鑑賞。


主人公のトラウマ、テロをめぐる攻防、仲間のなかの内通者、敵スナイパーの顔、最後のカウントダウン演出、B級俳優の安い演技。とにかく、ものすごい既視感。
いま流行(?)の「強い女性ヒロインによるアクション・サスペンス」みたいな感じで小銭を稼ぎをしよう・・・という製作者側の志の低さが如実に表れている。
ひどい既視感で、見終わったばかりなのにほとんど上手く思い出せないが「ギャグなのかな」と思った点を書き残しておく。

この手の映画では、ラスボス(たいてい意外でもないんでもない人物)が、犯行の動機を主人公に語る場面がある。
で、『アンロック/陰謀のコード』のラスボスが語る犯行の動機は「国や国民に生物テロの恐怖を分かってもらうため」だった(記憶違いでしたら訂正します)。
曰く「9.11の前にも、貿易センタービルでは爆破事件が起こっていた」「過去の教訓を活かせなかった」「私は国を愛している」「生物テロの恐怖を分かって」「これも国のためだ」うんぬん。
舞台はイギリスなのだが、敵たちはアメリカ代表VSイギリス代表のアメフト大会でウイルスを散布し、それで観客の体内にウイルスを仕込んで、アメリカに持ち帰ってもらうという面倒なことを実行しようとするのだ。
なんかもうムチャクチャで、正直よくわからなかった。

最近知った言葉に「マクガフィン」というものがある。
せめて観客が違和感を持たないように、あるいはこれなら仕方がないと思える程度に、もうすこし上手に「マクガフィン」を使えよと思った。監督もええ年してこのクオリティは恥ずかしいし、チャンスは若手に譲るべし。

 

まごうことなき駄作だが、『ひるね姫』よりはマシ 『ダウンサイズ』22点

 

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このポスター。小学生的発想でダサく、これでは観に行きたいと思えない。

特に「ダウンサイズ」の文字がどんどん小さくなっていく感じが、小学生的で、フォントも工夫がない。

なにが言いたいのかというと、このポスターのデザインを考えた人も「この映画に愛がないのだろうな、乗り気じゃないのに仕事で作ったんだろうな」という感じが伝わってくる。

そもそもマット・デイモンが主役なのに、ほとんど話題になっておらず、その時点で嫌な予感しかしない。

しかし、僕は日常から逃れるため、映画館に足を運んだのだった・・・


で、結論から言うと、クソつまんない。

体を小さくする技術が実用化された近未来。資産も数十倍になるということで、マット・デイモン演じる男とその妻がダウンサイズを決意する。
といっても、社会はまだダウンサイズの是非について、統一した見解を出しておらず、賛否両論が渦巻いている・・・
と、ここまでは面白い。
さらに、ダウンサイズの際に一悶着あり、マット・デイモンだけがダウンサイズしてしまう。
これも面白い。
その後も、義足のベトナム人女性活動家との交流や、彼の特技(作業療法士)を活かして底辺社会に溶け込んでいくあたりも面白い。
では、何がつまらないのか?


原因はいくつかある。
テンポが悪い。小さい人間になったことによる映画的驚きの描写が少ない。などが挙げられるが、やはり脚本に問題がある。
脚本の最大の問題は、ラスト20分くらいだ。
南極の氷から出たガス(北極だったかも)により、地球が滅亡する! という話が、まったく唐突に挿入されるのだ。
で、最初にダウンサイズした人たちが暮らす村は、自分たちだけのシェルターに入って助かろうとする。
そこにマット・デイモンも加わるのか・・・それとも・・・といったあたりの演出が、つまらない。
深刻さは足りず、かといってギャグも面白くないのだ。
かなりキツかった。。。

唯一、この映画で評価すべきは、マット・デイモンの演技だろう。
「冴えないけど根は良い奴」という役がこんなに上手だとは思わなかった。
ハイライトは二カ所ある。
一つは、上の階のパーティーに入り込んで、彼なりにパーティーを楽しもうと頑張る描写。
二つ目は、世界滅亡前(なんのこっちゃ、と思う方は是非劇場へ)に、カルト集団とともに夕日を浴びて民族音楽を打ち鳴らす場面である。
この二つの場面はいかにも馬鹿な感じが非常に上手くでていた。

マット・デイモン
万里の長城の映画もそうだが、出る作品を選ばないプロフェッショナルな態度に好感を持ったことは事実であり、これからも大味でバカっぽい作品に出て、順調に存在感を薄めていくのだろうという予感がするのだった。

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世間の高評価に納得 『シェイプオブウォーター』91点

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幼少期に声帯を切られた上に捨てられた中年女性と、研究用にアマゾンから連れてこられた「魚人(?)」の恋の物語。
冒頭の数分、主人公の日々が「同じことの繰り返し」であることが端的に示されている。いつもと同じ時間に起き、風呂に入り、同じバスにのり、同じ仕事をする・・・
ある意味では「さえない日々」だし、別の意味では「それなりに上手くやっている日々」でもあるが、そうした毎日を劇的に変えたのが、「魚人」の存在だ。

主人公は研究施設の清掃係として、「魚人」と出会う。
「魚人」もまた言葉を話すことはできないが、ジェスチャーで次第に意思疎通が可能になってくる。

「魚人」の造形は、仮面ライダーの敵役のようにスーツアクターが中に入っている「怪人」で、人間のような形をしてはいるものの明らかに人間ではない。
主人公はこの「魚人」と恋をして、セックスまでするのだが、よくよく考えるとちょっと怖い。
しかし、この映画は、二人(?)の恋愛を説得的に描くことに成功している。
なぜ成功したのか、それは脇役たちの存在があるからだ。

重要な脇役は四名。
一人目は、主人公の同僚清掃員である黒人女性(口を開けば愚痴ばかりだが、それも愛嬌があった。旦那がビミョー)。
二人目は、主人公の隣人の初老の画家(広告用の絵画を描いて糊口を凌いでいる。おそらくゲイ)。
三人目は、研究者で実はロシアのスパイの男(祖国に違和感を覚えている)。
最後に「電気棒男」。
この四名もまた、主人公と同じく、実は「ある意味ではさえない日々を送り、別の意味ではそれなりに上手くやっている」人たちである。
笑えて切ないのは「電気棒男」。

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朝鮮戦争経験者で、そのときの上官のもとでいまも働いている。
上官に認められることだけを考えて自分を奮い立たせ、家では「理想の夫・父親」を演じ、職場では「パワー・オブ・ポジティブシンキング」という自己啓発書を読んでいる。なんというか、フツーと言えばフツーだし、いまの生活に不満があるわけじゃないが、でも何か満たされないものを感じている・・・というサラリーマンとして描かれている。指は腐ってきて臭いし、買った車はぶつけられるし、、、もうさんざん。

だからこそ、電気棒による拷問などの残虐性にも、妙なリアリティがあった。ああ、これで何かを発散しているのだなあ・・・という感じ。だから、彼の最後は悲しかった。もちろん、彼がやっていることはサイテーで、その点は言い逃れできないが、それでも忘れがたい人物だ。

研究施設から逃がしたあと、主人公の家にかくまうのだが、この共同生活の辺りから映画がどんどん楽しくなる。

猫を食べたりするけど、でも楽しい。でもいつかは「魚人」を逃がさなければならないため、長くは続かないことも分かっている。

そういう状況で、バスルームが海になる。

おそらく誰もが心に残ったであろうあの場面、「あり得ないけどありそう」で、ちょっとした工夫で「日常が非日常に!」という感じがとても良かった。

画面がもつ力を感じた。
皮肉を効かせたコミカルな描写、わりとストレートな性描写もあわせて、大人の童話という感じか。世間の高評価に納得です。

20分くらいの短編映画にすべき 『15時17分、パリ行き』53点

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イーストウッド監督作はいつも評価が高く、熱心なファンが多い。
父親たちの星条旗』みたいな大作も作れば、『グラントリノ』のような佳作も撮る。
俳優としてはもちろん、監督としての評価ももはや揺るぎないわけだが、今回はいかがなものか。

列車内でのテロに遭遇した若者たちの実話で、演じる三人のアメリカ人はみな本人・・・という程度の前情報しかなかったので、三人の子ども時代から始まったときは、「あれ?こんな映画なん?」と肩すかしにあった感じ。三人は大人になってからも変わらぬ友情を保ち続けている。
なかでも、ミリオタのぽっちゃりした男の子に焦点が絞られる。
彼は、軍(パラシュート部隊だったか?)に憧れて、一念発起。体を鍛えて入隊するも、適正がなくて当初の目標だった部隊には入れないという挫折を味わう。
で、久しぶりにみんなであつまろう。みんなでヨーロッパ旅行だ! と盛り上がって、その途中の列車でテロに遭遇する。

鑑賞中に思ったのは、肝心のテロまでの描写が長すぎるということ。
イタリア、オランダの旅がロードムービー的に、だらだらと撮られる。

もちろん、実際にテロに遭遇した三人が「再現」しているわけで、そういう意味では味わい深いのかもしれないが、さすがに長い。長すぎる。

オランダでのナイトクラブの場面。ベネツィアでのキレイなお姉さんとの会話。ああいう場面がほんっっとうに退屈だった。
このあたりはイーストウッドも自信がなかったのだろうか、観客の興味を持続させるために、断片的にテロの映像を小出しにするという演出が採られている。これも、なんだか安易だなと思った。

「再現」へのこだわりは相当なもので、パリ行きの列車は、実際のテロが起きたのと同じタイプの車両を、同じ時刻に走らせ、そのなかで撮ったそうだ。乗客たちも、警官や救急隊員たちも、事件に遭遇した「本人」たちが出演しているとのこと。ということは、撃たれたあの叔父さんも、主人公が手を貸してあげたあのお年寄りも「本人」なのか! それはそれで新鮮な驚きだ。
極めつけは、最後の場面。フランスの大統領から勲章を授かる映像だ。どこまでは実際の映像で、どこからが取り直したものなのか、判別しがたいくらいに徹底して「再現」されていた。
そういう意味ではドキュメンタリー的で野心的だと思うが、肝心の「面白さ」がお粗末になっていはしないか。

「真実に基づいた物語」とアピールする映画が多い中、忠実に事実を再現しようとする試みは確かに興味深い。例えば、同じ監督の『アメリカン・スナイパー』のように、エンターテイメント化するのではなく(まあ、あの作品も最後はドキュメンタリー的だったが)、あくまで事実を淡々と再現することの意義はあるような気がする。でもそれが具体的にどのような意義なのか、僕自身まだわからない。
わかるのは、退屈だったということだ・・・
事実を事実として映画化すれば退屈になってしまうという問題。
現実と虚構の関係を考えたくなった。変な映画だったが、この「変さ」には、何か面白い論点がある・・・かもしれないが、うまく言葉にならない。
ということで、戸惑いながら53点。